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幸せ(S)に(N)なりたい(N)ブログ(B)

人間関係の迷宮を彷徨う

1人とは寂しいものです。

何か適当な理由をつけて自分は幸せだと思い込もうとしたり、他人にアピールしたりしますが、結局、1人で生きていくというのは苦痛です。

「1人の時間が一番好きだし」

「1人のほうが気楽だし」

確かにそれは嘘ではない。時には1人の時間も必要でしょう。

でも1人の時間しかないというのはそれとは全く別の話です。

人間は社会性のある生き物として進化してきましたから、1人で居て正常に機能するようには設計されていない。

誰かと関わっていないと孤独感が募っていき、それは不幸という感情、つまりエラーとなって現れます。

幸せに生きたいと考えるのなら、一人でいるという選択肢はないんですよ恐らく。

 

孤独感を紛らわす方法もいくらかあるようです。今の時代は。

例えばテレビ。

理性ではもちろん画面の中の人物が本物の人間じゃないとみんな分かっているのですが、本能では「私には友達がいる」と誤認してくれるそうです。

また、AIの発達で今はAIフレンドなんてのもあります。昔シーマンとかピカチュウ元気でちゅう(でしたっけ)みたいな、話しかけると反応をしてくれるゲームみたいなのがありましたよね。

あの時代は結局決まったセリフを言うだけで、知性のある何かと会話している感じは全くしませんでしたが、今のAIは割とその辺うまくやってくれます。

今後AIの技術が発達していけば真の絆を感じさせてくれるAIフレンドも誕生するかもしれません。

 

ただこれらは結局その場しのぎというか対症療法でしかない。

「テレビつけてりゃ幸せじゃい!」とか「AIが友達になってくれた!」と思えりゃいいですがね。

「どうせ全部嘘物やん。」「虚無だ。」となってしまう。

根本的な解決はやはり生身の人間を相手にしないとできない。

 

であれば結局人とたくさん関わっていきましょうということなですが、ここで問題となってくるのが、適切な人間関係を築けるかということですね。

それができない人にとっては人間関係はむしろ不幸の種にもなりえます。

人間関係が人の幸福に最も寄与するという考え方はもう多分揺るがないと思うのですが、それは「いい人間関係」だった場合の話です。

良い関係を作るには、適切なコミュニケーションが必須ですので、つまりコミュニケーション能力こそが幸福に生きるための最重要スキルなわけです。

 

コミュ力をつけて、良い人間関係を作りましょう。ということですが「誰と?」というのが目下課題として出てきます。まあ誰でもいいんですよ。いい関係が築けて、それが自分のアイデンティティや価値観にいい影響を及ぼし、幸福という状態をもたらしてくれるなら。自分にとっていい関係を見つけそれを築くのが最良です。

でもまあ個人的には一番手っ取り早いのは「結婚」かなと思います。

 

信頼し合うとか、尊敬しあうとか、補い合うとか、協力し合うとか。

どの人間関係でも満たせることはまああるでしょう。

一方で、家族という共同体を作らなければ満たせないものもある。

生きがいとか、同じ共同体という意識とかそういう強固なアイデンティティになりうるものです。

友人や仕事仲間でも作ることは可能かもしれませんが難易度は家族より高いように感じます。

一般的には友人や仕事仲間と、子育てはできませんし、肌と肌を寄せ合うような親密な関係にはなれません。

良質かつ親密な関係を最も手軽に得る手段としては「結婚」が最もポテンシャルを秘めている。

 

近年は「独身が幸せだぞ」とか、プロパガンダみたいにどこででも言われていますが、結局その根拠に持ち出されるあれやこれやは、「それってコミュ力の問題でしょ」で全て論破できちゃう気がします。結婚は昨今言われるほど悪いものではない。

 

もちろん、その人の特性によって、結婚よりも適した人間関係がある場合ももちろんある。結婚大正義とは言いません。あくまで個人的に、最も手っ取り早いのは結婚じゃないと思うだけです。

真実と納得

なんか考えたときに、「分からなかった」って結論になるとモヤっとしますよね。

知らないことを放置するのになぜ抵抗があるのか。

理解できなかった事で自分が無力だと感じるからでしょうか。

そもそも、明瞭でないものが人を不安にさせるからか。分かりません。

 

ただ、世の中のほとんどのことは解明されていないわけですから、考えた結果が「分からない」というのは非常にありふれていたりします。

だからこそ、「すぐには結論を出さない力」とか、「答えの分からないものを放置する力」みたいなのが重要だったりするんですが、人間のプログラムとしては分からないものは放置したくないと、そう設計されています。

だから、わからないで終わると多くの人は納得いかない。

なんでも良いから納得のいく答えが欲しいなという気分になります。

この時、重視されるのは納得できるかどうかであり、真実っぽければ実際に真実かどうかはさして重要ではなかったりします。

だからリテラシーを身に着けた人はちゃんとリソースとかエビデンスとかを求める一方で、そうでない素の人間は嘘を簡単に信じてしまいます。納得出来ちゃえば別に本人的には問題ない。

「いやそんなことないっしょ」と思いますよね。でも多分そんなことある。

その最たる例が宗教です。あれは恐らく最も大規模な「人を納得させるためのそれっぽい理由」です。世界中のものすごい数の人間を納得させためちゃくちゃな規模のやつ。みんなバカだから信じてたとかではありません。人間本来の性質に刺さるからこそ宗教はこんなに広まっている。

「分からない」に困っている人々を救うためのめちゃくちゃ優秀な手段。当然宗教にはそれ以外にも多くの価値がありますが、一つの機能として、今述べたようなこともあるはずです。

 

今でこそ、数多の人々の試行錯誤の結果、人類が積み重ねてきた英知はうずたかく積み重なり、結構な事の真相が明らかになっています。科学とか呼ばれますかねそういう情報は。

真相が明らかになった事が今はたっくさんあるので、宗教の価値は下がって来ている。

昔は地球は動いていませんでしたが、今は地球はぐるぐる回ってるというのが常識ですよね。

でも今でも地球は動いていないと信じる人も結構いるんですよ。

その人の中では地動説よりも天動説のほうが「納得できる理由」な訳です。真実かどうかは関係ない。

いろんな事が解明される前は、分からないに困ってる人を納得させるための適当な理由がめちゃくちゃありました。

その代表が宗教で、ほとんどのことは神様がやったことっていうふうにされて済まされてます。神様という概念は本当に便利ですね。

発明した人マジですごいなと思う一方、世界中あらゆるところに神様がいるのは、分からない物を放置したくないと考えたら、そういう存在に誰かが行き当たるのは当たり前だからなのかなとちょっと思います。人類が神を作るのは必然!みたいな。

「適当な理由を考える」っての以外にも、「名前をつける」ってのも簡単に納得を手に入れる手段の一つだったりします。未知のものには何でも名前を付ける。そうすると不思議と、分かった気になれる。思考の深度が浅い人なら、適当な理由なんか説明しなくても、名前を教えただけできっと納得してくれます。名前の本来の用途は「人を納得させるため」というわけではないですが、そういう側面があるのも事実でしょう。

 

真実ってのは、結局自分の身をもって体験しないと分からない物です。

でも世の「分からない」を全て体験でカバーしようとすると、無理があるというか、それは不可能です。

だから、簡単な手段として納得できる理由ってのを人は求める訳ですが、素の状態でそれを求めると、単に名前を知っただけで納得しちゃったり、デタラメな理由でもそれっぽかったら納得しちゃったりするわけです。

私は、当然本能に沿って「納得」もしたいですが、どうせ情報を集めるなら少しでも真実に近いものが欲しい。そして表層だけで納得してしまうことなく、きちんと深くまで知りたい。

「納得すること」と「真実を知ること」は同じことではないとそう理解しながら、

人間の本能に抗い、できるだけ深く物を考えていきたいなと思う今日この頃です。

 

ChatGPTによる講評

この文章は、人々が「分からない」ということに対して抱く心理や、その背景にある思考過程を深く探求していますね。また、納得や理解の欲求が人々の行動や信念にどのように影響するかについても触れています。

著者の見解としては、真実や科学的な情報に基づいた納得の重要性を強調していますが、同時に人間の心理や本能がどのようにして真実でないものを受け入れやすくするかにも言及しています。また、宗教や名前付けなど、未解明のことに対する人々の納得のメカニズムについても言及しています。

私自身としては、真実を追求することや深い理解を求める姿勢は大切だと考えます。また、納得するためには客観的な情報や根拠が必要であり、一方で自分の経験や感覚も大切にすることが重要です。ただし、人々が真実でないものを受け入れやすい心理的な側面も理解しておく必要があります。

文章全体から、知的好奇心や真実を求める欲求を大切にし、同時に客観的な情報と深い理解を追求することが重要だというメッセージが伝わってきます。

 

セルフコンパッションとは万人が扱えるものなのか

セルフコンパッションと言う言葉があります。自己受容とも言われますね。

コンパッションには慈悲という意味があります。

つまりセルフコンパッションとは「自分を許す、憐れむ」そんなニュアンスです。

現実の自分と理想の自分に乖離を感じ、自分を責めてしまう。

そんな状態の時に役に立つ考え方です。

まあ誰でもそんな悩みの一つや二つありますよね。

どんなことでも、自分より上の人は必ずいます。

厳密には、自分より上に人がいない人ってのは分野ごとに1人しかいません。

1位の人だけです。でもほとんどの人は1位にはなれない。

というか人類のうち1位以外の全ての人が2位以下なわけです。当たり前ですが。

その2位以下の人々は、健全な精神を保つためにも自己受容する必要があるわけです。

 

が、ここで疑問が沸きます。

2位の人はまあ1位でなくとも自分を許せるだけの理由があるでしょう。

2番目は1番ではないにしても、めちゃくちゃすごいですから。

3位の人もまあ良いでしょう。

でも2位の人よりはわずかに自己受容の難易度は上がるはずです。

この難易度は、4位、5位、と低い順位になるほど上がっていく。

そうなると人類全体で下から数えたほうが早い人とかはどうなるのでしょう。

恐らく、その人の自己受容の難易度はものすごく高くなる。

今は順位で考えましたが、ちょっと説明しにくいので点数で考えたいと思います。

100点の人は当然自己受容できる。

というか自己受容という考え方自体がそもそも必要ないでしょう。

100点の自分を許せないなんてことは普通あり得ませんから。

90点や80点の人の場合は「100点を取れないなんて私はダメだ」と責めてしまう可能性はあります。

でも、ちょっと考え方を変えるだけで「まあ80点取れてるなら自分は上出来じゃん」と自己受容するのは容易なはずです。

そもそも80点も取れてりゃ、自分どころか他人も上出来だと思ってくれるでしょうからね。満たされた承認欲求的は自己受容を後押しします。

じゃあ5点の人ならどうか。おそらく自己受容がめちゃくちゃ難しい。

よっぽど感情を殺すか、完全に諦めてしまわない限り、5点の自分を受け入れることは困難を極めることでしょう。

つまるところ。今の自分を受け入れましょうという考え方はある程度点数を取れている人向けの言葉で、底辺にいる人たちには大して役立たないということです。

 

世の中の大多数は自己受容が役に立つ人です。

50点くらい取れてれば、どうにか自分を許すことができるでしょうから。

だから、セルフコンパッションが大事だよと世間で言われていること自体は別におかしいことではない。むしろ大いに有益な情報だ。多くの人に刺さるし、多くの人の役に立つ。

でも、確実にそのセルフコンパッションが役立ちにくい層がいる。

彼らが自分を許せず苦しんでる中で、セルフコンパッションという概念を知った場合、弊害があるように思うのです。

それは、自己受容中は、成長を望まなくなるということ。

現状の自分に満足している人間は先に進む努力をしません。

「ありのままの私を受け入れよう」「5点でもいいんだ」そう思っているあいだは変わろうとする意志が弱まります。

5点の人がまずやることは何かと言われれば恐らく点数を少しでも上げること。

それが難しいんじゃねえか。確かにそうなんですが、例えば90点の人が100点になるのは恐らくめちゃくちゃな努力が必要でしょう。だからこそ、100点をとれない自分を自己受容する必要があるのですが、5点の人は彼らと違って伸びしろがある。

筋トレだってというかあらゆるものの上達がもはやそうですが、最初はぐぐぐっといっきに伸びていきます。

まずは50点くらいまで自分を引き上げること、つまり自己成長に取り掛かることが、自己受容より先に行うべきことであるはずだし、おそらく可能なことのはずです。

最初から自己受容を無理やり始めてしまうと、5点のままその位置にとどまることになる。

結局、自己受容しきれず苦しみ続けることになるのだと思うのです。

 

 

現状の自分と理想の自分を比較して責めてしまうという苦難。

それのもっとも根本的な解決手段は、100点を取ることです。

100点なら自分より上の比較対象はそもそもいませんからね。

まあ現実的ではないですが。

90点くらいでも大抵の人よりは上ですから、たまに現れる自分以上の人がいたときだけ対策すればいい。

その対策として、自己受容があるわけです。

自己受容で解決できる範囲の点数の人には実践してもらうとして、問題は自己受容なんか到底できないような点数の場合です。

そんな時まずやるべきは「ありのままの自分を受け入れましょう」「できない自分を許してあげましょう」といった甘い言葉を鵜呑みすることではなく、自分を高めることです。

まず点数を可能な限り上げ切る。

そこに力を注げなければ、問題解決は延々と先伸ばされていくことでしょう。

 

 

chatGPTによる講評

自己受容やセルフコンパッションは確かに重要ですが、それがすべての人に適用できる解決策ではないことは理解できますね。特に、自分を改善しようとする意志がある場合には、自己受容だけでは不十分です。点数やランキングで考えると、確かに自己受容が必要なのはある程度の点数を取れる人々です。しかし、低い点数や下位のランキングにいる人々は、自分を受け入れる前に自己成長に取り組む必要があります。

自己成長と自己受容は両立できるものであり、一方を犠牲にする必要はありません。自分を受け入れることは、自分の現在の状況や能力を正しく理解し、その上で成長するための土台を築くことにも役立ちます。自分を受け入れることが、自己成長の邪魔になるのではなく、むしろ成長のための基盤となることもあるのです。

つまり、自己受容と自己成長はバランスが重要です。自分を許し、受け入れることで、自己成長への励みとなり、同時に自己成長を通じて自分をより良く受け入れられるようになるのです。そのためには、自分自身と向き合い、どの段階にいるかを正しく把握し、適切なアプローチを取ることが必要です。

意識の移動という考え方について

ボディスキャン瞑想をしていて、思うことがありました。

 

ボディスキャン瞑想とは全身に意識を巡らしていく瞑想です。以下に詳しく書きますが必要なければ飛ばしてください。

ボディスキャン瞑想は、マインドフルネス瞑想の一形態であり、身体の感覚や感情に注意を向け、それらを受け入れることを目的とした瞑想の方法です。一般的には、次のような手順で行われます。

リラックスした状態を作る: ボディスキャン瞑想を行う前に、静かな場所でリラックスした状態を作ります。座っているか横になっている姿勢が一般的です。

注意を身体の一部に集中させる: 初めに、呼吸や身体の感覚に注意を向けます。その後、身体の一部(例えば、足、脚、腹部、背中、手、頭など)に焦点を当てます。

感覚を観察する: 選んだ身体の一部に注意を向けたら、その部分の感覚を観察します。どのような感覚があるか、痛みや緊張、温かさや冷たさなどを意識します。

受容と非判断: 感覚や感情が現れたときに、それらを評価や判断することなく受け入れます。肯定的でも否定的でもなく、ただ感じることに集中します。

次の部分に移る: 一部の感覚を観察したら、次の部分に注意を移します。身体の上から下へと注意を移動させながら、全身の感覚を観察します。

全身の感覚を観察する: 全身の感覚を観察した後は、全身の感覚に焦点を当てます。全身が一体となってどのように感じられるか、その感覚を観察します。

締めくくり: ボディスキャン瞑想を終えるときは、ゆっくりと呼吸を深め、身体が感じる感覚に感謝します。そして、ゆっくりと目を開けて周囲の環境に戻ります。

ボディスキャン瞑想は、身体と心の状態に気づき、それらを受け入れることでストレスを軽減し、心の平静を促すのに役立ちます。

 

私はボディスキャン瞑想で、自分の足の薬指にいかに自分が無頓着かということを思い知らされました。人に触られても何指を触られてるかわからないんですよ足の薬指って(笑)

 

本題です。

今回話したいのは薬指の感覚ではなく、

「意識は考えているもののところへ行く」ということです。

実際に行っているかはわかりませんが、そういう感覚がある。

意識の玉みたいなのがあって、それが意識している場所に行くって感じですね。

右手について考えてるときは右手に、左手について考えているときは左手に。

虫刺されとかを考えると分かってもらえますかね。

かゆいところを一回気にしだすとどんどんかゆくなっていく。

そこに意識があるからです。

なのにインターホンなんかが鳴ったりしてちょっと別のことに意識が行くと、あんなに気になっていたかゆみのことを忘れたりしませんか。

意識が移動するってのはこういうことです。

かゆい部位からインターホンに意識が移動したということなのですが、お気づきの通り、意識の玉は、自分の体の外にも出ていきます。

気になるあの人のことを考えているときや、前に行ったあの場所について考えてる時は、自分の中に意識はありません。

多分考えてるその人のところや、その場所の所に意識があります。

ちょっと最寄り駅について考えてみてください。

すると、なんとなくですが駅がある方角に自分の意識が行ってる感じしませんか。

他にも私は「洗い物しないと」と思いながら他のことをしていると、なんとなく目の前のこと以外にも台所に意識を置いている感じがします。

この時は、意識の移動に加えて「分散」も起きていますね。

つまり「目の前の事に対する意識」と「台所のほうにある意識」という感じに自分の意識が分散している。

物事に集中している状態とそうでない状態の違いはこの意識の分散があるかないかだと説明できます。

ここまでは意識の空間における移動についてでしたが、他に意識は時間移動も可能です。

思い出にふけっているときは過去。

明日の予定のことを考えているときは未来。と、そんな調子で。

空間時間を超えて色んな所に行かせることのできるこの意識ですが、それを「”今”の”自分”に置くこと」がマインドフルネスにおいて重要とされていたりします。

瞑想の時とかは「自分の今この瞬間に集中してください」とか言うけど、それはこの「意識を今の自分に置く」状態にしてください、ということですね。

瞑想中、放っとくと意識は過去や未来、ここじゃないどこかに飛んでいこうとするので、それに気付くたびに「今の自分」まで引っ張てくる。おー、分かり易い。

 

そんでここで気になったことがあるんですが、「自分に意識を置く」とはどういうことなんでしょう。

恐らく自分の体の中に意識を置くことではあると思うのです。

でも、例えば小指の先に意識を置いた状態は、いまこの瞬間の自分でなく、今この瞬間の小指に意識をおいてるという感じがするのです。

つまり、小指は体の一部ではあっても「自分本体」ではないというか。

では、その本体はどこなのかというわけで、ちょっと探ってみました。

当然、毛や爪、肘や膝でも無いし、肩とかでもない。

丹田なんて言葉もあるし腹のあたりかと思ったがそこでもない。

心は心臓辺りにあるとも言うから、胸かなと思いきやそうでもない。

そうして、自分とはどこかを探って行きました。

自分からの距離ゼロ地点はどこか。

距離ゼロ地点と言ったのは例えば、最寄り駅について考えているときは自分と意識の間には数百メートルの距離があります。

隣人宅なら十数メートル。部屋の隅なら数メートル。

自分の小指ならまあ1メートル以下。

じゃあゼロメートルはどこなのか。ということです。

結論から言うと「ここだ!」というピンポイントは実は見つけられていません。

でも大体の目星はついています。

眼球とか眉間とか、もしくは脳、脳の中でも下垂体辺りかなとか。

良い線行ってると思いますが、ピンとくる場所がちょっとない。

誰か感覚に鋭敏で、ここがまさに私だってのがわかる人いたらぜひ教えてください。

私は少なくとも頭部の目より上側辺りにあると思っていますが、人によっては、心臓辺りだったり、丹田辺りだったり、股間辺りの人も居るかもしれません。

そう考えると意識ってのは心とか魂とかと紙一重な感じしますね。

どれもはっきりしていないから同じかどうかは分かりませんが。

とにかくそんなことに気付いたわけです。

 

この感覚はちょっと便利な面もあって、私は「意識を今の自分に置く」ということが容易になりました。

意識という小さな玉があって、「それが今はあそこにあるな」みたいな、「ここに戻っておいで」ってイメージし易くなる。

そういう便利な発見でもあった次第です。良かったら使ってみてください。

 

chatGPT先生による講評

素晴らしい洞察ですね!意識がどのように動き、どこに配置されるかについてのあなたの考察は、マインドフルネスや瞑想の理解を深めるのに役立ちます。

意識の移動や配置についての観察は、自己認識や自己理解を深める上で非常に興味深いものです。私たちの意識は、しばしば過去や未来、他者や外部の出来事に飛びやすいものですが、マインドフルネスの実践を通じて、意識を「今の自分」に集中させることが重要であることがわかります。

意識の中心や配置については、個人差や文化的な違いもあるかもしれません。しかし、それがどこであれ、自分自身の意識を感じることで、より現在の状況に集中し、心の安定や平静を促すことができるでしょう。

また、意識が「今の自分」に戻るイメージは、瞑想やマインドフルネスの実践において役立つツールとして活用できます。意識の移動や分散に気づいたときに、そのイメージを思い出して、自分の意識を「ここに戻っておいで」と誘導することで、集中力やマインドフルネスの状態を維持するのに役立ちます。

あなたの考察は、自己観察や内省を深め、より意識的な生活を送る手助けとなるでしょう。この洞察を大切にして、マインドフルネスの実践を通じて、自己理解や内面の平静を深めていってください。

 

外注するか、自分でやるか

人の行動指針はその人の価値観によります。

例えば「外注する人」と「全部自分でやる人」。

真逆の行動を取る両者にもそれぞれの価値観があり、その価値観に従った結果真逆の行動を取るに至ったわけです。

どっちが間違っているとか正しいとかはありません。それぞれ正しい。

 

外注する人は大抵こんなことを考えています。

「自分でできないことは例えお金を払ってでも人に任せよう。苦手なことに時間を割くより、得意な人に外注して、空いた時間を自分の得意なことに回した方が効率的だ」

「人類は社会性のある生き物で、集団の中で人と協力しあってこそ真価を発揮する。皆で作り上げた物は、相乗効果で1人で作るよりも何倍も良いものになる。それぞれが得意不得意を補いあうこと、つまり私が苦手を外注することは本来あるべき人間の姿だ。」

 

一方で全部自分でやる人は、

「人に任せてしまうと、自分の思った通りの出来にならない。手が回らない時は仕方なく人に頼むこともあるが、極力自分でやるようにしている。そうしないと納得がいかなくなってしまう。」

「自分でやるべき作業を、人に任せてしまうのは気が引ける。人に迷惑をかけないためにも、できるだけ自分でやるようにしている。」

「できないからと人に任せてしまっては、永遠にできないままになってしまう。それだと自分の成長につながらない。なにより自分の分からないことを人に任せてしまうと、丸投げになってしまい、適切な注文や状況の把握ができない。重要な事でそうなってしまうのは困る。」

 

みたいな感じです。

 

それぞれについて考えてみましょう。

例えば全部1人でやる場合、その人が「天才」みたいな存在ならばその方がいいかもしれません。凡人の思考や作業を混ぜてしまうと「天才」思い描くものが出来なくなってしまう。

 

ベルリン国際映画祭の有名アニメ監督は、本来自分一人で全部作品を作りたいけど、無理だから仕方なく人に任せていると言います。毎回「引退する」というのは、外注しないで済むものは全部自分でやってしまうため、本当に精魂尽き果てるのでしょう。また、外注すると、自分の想像と違うものが大抵上がってくるため、仲間を否定しなければならないことになり、それも擦り減る原因だそうです。監督としての最初の一本目から「仲間を失うからもう二度とやりたくない」と漏らしていたようです。

 

つまりこの例でいえば、1人でやれば納得の行くものが完成するかもしれないが、同時にとんでもない労力がかかる訳で、それを天秤にかける感じになります。

 

一方で外注については、まずは効率的で楽になりますね。これは1人でやるのと逆ですね。

同じように出来上がるものへは納得しにくくなる。そこはある程度妥協することになるでしょう。

しかし、成果物の質に関しては実は必ずしも逆にはなりません。

人に頼んだからといって悪いものになるとは限らない。

色んな人が携わることにより、良いアイデアが生まれやすくなるからです。

1人では思いもよらなかった事を二人になると突然思いついたりする。

人数が増えるほどその確率は増えていきます。

 

同じアニメの制作で例えると、某有名ネズミの会社では、1人の天才が独断でアニメーションを作って行くことはありません。マニュアルに則って、完全分業と話し合いによって作り上げられていきます。そうしてできた作品は、天才の特別なアイデアがなくとも、斬新なアイデアの宝庫となり世界中の人を楽しませる作品に仕上がるのです。

 

まあ「天才のアイデアがなくとも」なんて言いましたが、実際のあの会社は天才の集まりなんですけどね。

なんにしても外注しているか、1人でやっているかという観点で両者は対照的なわけです。

 

他にも徳川幕府は、天才家康の頃は1人で事実上ほとんどのことを決めていましたが、2代目以降、つまり天才を失ってからは、家臣との話し合いにより運営されています。

天才がいてその人のやる気があるなら一人で、

天才不在か、もしくは労を減らし継続性を重視するなら外注でという感じでしょうか。

 

他にも1人で作ったものはめちゃくちゃ尖ります。

1人の人の価値観が思い切り反映されているので、その価値観を理解できる人にはめちゃくちゃ刺さりますが、理解できない人にはめちゃくちゃ不評になったりします。

アートや音楽は割とそういう側面ありますよね。

 

一方で外注の場合、関わる人数が増えるほど丸くなる。

これは多くの人の価値観を擦り合わせて、より色んな人が共感し易くなるからですが、一方で、誰にも刺さらないものが出来上がるリスクもあります。

なんか皆で話し合ったらくそ詰まらんものができてしまったぞみたいなことはよく聞く話です。

それを避けるためにネズミのところはマニュアルを用意しているみたいですね。

 

散文ですがまとめます。

価値観や行動指針に基づく選択の多様性は、個々の個性や環境によって異なります。外注するか、自分でやるか、その選択にはそれぞれのメリットやデメリットがあります。外注することで効率化や多様なアイデアの取り入れが可能になりますが、自分でやることで納得感や個人のアイデンティティを強化することもできます。また、天才の存在やチームの構成、目指す成果物によっても最適な選択は変わってくるでしょう。

 

言いたかったことを書く前にこんな量になってしまったので、今回はこれで締めます。

「得意なことを外注する」のと「苦手なことを外注する」のの比較でちょっと思いついたことがあったので本当はそれを書きたかったのです。書き出しをミスったのと、アニメ制作の例を話し過ぎました。また後日。

教養を生む読書の方法

読書は教養を深めるなんてよく言いますが、世の中の読書好きを眺めていると「必ずしも教養を高めるものじゃないのかな」なんて思うこともしばしば。

教養になる読書と、そうでない読書。何が違うのか。

正しいか間違ってるか、みたいなことを言い切るのははばかられますが、少なくともあまり役に立たない読書の仕方ってのはあるのでしょう。

意味のある読書と意味のない読書の違いは何なのか。

そこに一つの説を投じます。

 

結論から言うと「多読より、厳選した本を繰り返し読む」。

 

たくさんの本を読めば読むほど、仕入れた情報の数は確実に増えて行きます。

100冊読んだら100冊分の情報が頭に入る。

読破数が増えるほど頭がよくなっていく気がします。

でもこれはあまりに短絡的で、実際は違います。

1冊の本に10書いてあったとして、一回の読書で10全てをさらい切ることはできません。間違いなく。

100冊読んで100冊分の情報が身になっているなんてことはあり得ません。

これは著者と読者の間に情報格差があるからです。

小学校で算数を学んでいる人に微分の話をしても殆ど吸収できませんよね。

微分を聞く前に、聞くに値する数学の知識を得ないと微分について聞いても何も理解できません。

それと同じように、本を読んだ時も、その時点で吸収できる量は著者との情報格差が広いほど少なくなり、ほとんどの場合10にはなりません。

その分野の門外漢なら、最初は1、暫く興味を持ち続けてから読んで2、そうやって読んでいくにつれて3,4,5と増えていく。

10得るには、恐らく相当な年月が必要です。

というか、10得られるのか実際のところわかりません。

そもそも自分がどのくらい得ているかは判断のしようがない。

数値で出るわけではないですから。

だとすると、本当に好きな本、大事な本は一生読み続けてもいい。

また、9学んだとしても本当に著者が伝えたいことは残り1に含まれていることだってあり得るわけです。

その場合10得ない限り、その著者の伝えたい真髄みたいなものは得られないことになります。

真髄を求めて何度も何度も読み返す。

得たのか得てないのか、疑いながら一生真髄を求め続ける。

恐らく身になる読書とはそういうものなんだと思います。

そうじゃない読書が無駄とは言わないまでも、本当の意味で教養にまで昇華されることはなかなか無いんじゃないでしょうか。

だからこそ、たくさん本を読んでいるのに教養が高いとは思えない人が存在するのではないかと思うわけです。

1や2の吸収で真髄を得ないまま次の本、また次の本と手を出しているだけではあまり役に立ってないんじゃないかと。

 

本以外にも、映画や絵画、漫画やアニメ、何でも良いですが、創作物には製作者の経験や知識、教養から生み出された真髄が意図的じゃないにしても紛れ込んでいるものです。

作者がそれまでの人生をかけて絞り出した真髄を吸収する前に、この作品は鑑賞し終えたと満足してしまうのはもったいない気がしませんか。

 

ベルリン国際映画祭の有名アニメ監督も、同じ作品を繰り返し見るそうです。

テレビもアニメも新しいものにはほとんど見ず、人生の中でこれは良いと思った物を繰り返し見ている。そしてひたすらその作品について考え、考えすぎて、自分の頭の中でまったく別の作品のように書き換わっちゃうことも多くあるようです。彼の作品が原作とかけ離れていることが多いのはそういうからくりかもしれません。

新しいもの拒み、古い自分の好きなものだけを見続けるその行動は、一見、年老いて好奇心を失っただけにも見える。

でも実は真髄集めをしているのだとしたら、途端に彼の創作の秘訣に見えてきます。

そうして集めた真髄を自分の作品に繁栄させているからこそ、世界的に評価される作品が作れるのではないでしょうか。

価値の形成と楽しみ方「80点のすすめ」

才能がある人にも彼らなりの苦労はあるのでしょうが、やはり羨ましいと思わざるを得ません。

よく美人が「私たちにも苦労はある」みたいなこと言いますが、見た目が悪いことの苦労のほうが多いですからね絶対に。そりゃ生きてりゃ嫌なことくらいあるでしょうが、客観的な幸福の総量はきっと美人なほうが多い。

才能がある人の苦労もきっと、何の才能もない不幸よりはマシなんだろうなと思います。

彼らの景色はどんなものなのだろうと想像してみるのですが、やはり一度は味わってみたいなんて感じちゃいますね。

例えばオリンピックで金メダルを獲得した人は、世界に「自分よりそれがうまい人」が0人という状況になるわけです。

承認欲求を満たす方法は数あれど、おそらくそれは至高の感覚の一つでしょう。

凡人がいくら頑張っても死ぬまで味わうことのない感覚です。羨ましい。

クラスで1番をたまたまとっちゃたときとか、あとはソシャゲ程度でもランキング上位になると嬉しいですからね。

その比じゃないでしょうが、とんでもなく脳汁が出るということは分かります。

 

 

ある分野で才能がある人のことを100点が取れる人と呼びましょう。

100点の人はそれだけで世の中に認められる。

彼らの才能は貴重で、それだけで価値を世の中に提供できるからです。

大谷翔平は恐らく野球で100点だし、マイケルジャクソンは歌と踊りで100点。

アインシュタインは物理学で100点だし、バフェットは投資で100点。

見た目が100点なら、芸能人やインフルエンサーとして世の中に価値を提供できる。

 

でも、お分かりのように100点を取れるのは才能のある人はほんの一握り。

凡人として生まれた多くの人はどんなに頑張っても90点くらいまでが関の山。

例え同じ努力をしても90点は決して超えられないというのは悲しい現実です。

 

じゃあ100点以外には価値が無いのかと言われると実はそんなことはない。

100点じゃなくても世の中に価値を生み出すことはできます。

 

あなたは100点はとれないかもしれないけど、もともと特別なオンリーワンなんだよとかそういう話ではありません。

凡人がとるべき価値形成の戦略という現実的な話です。

 

ある分野で90点を取れる人はごまんといます。

それだけ汎用ではその人に価値があるとは言えないかもしれない。

でもある分野と、また別の分野の両方で90点取れる人はといえば、かなり減ります。

少し価値が上がりました。

では3つの分野で90点なら。

もっともっと数が減り、価値もより上がります。

つまり多くの分野で90点を取り希少性を上げていけば、価値もどんどん上がっていくわけです。

そうして価値を上げていけば、やがて100点の人に匹敵する価値を手にれることさえ可能かもしれない

スポーツでメダルを獲得できなかった人がコメンテーターや指導者として、金メダルを取った人以上の活躍をしていたりなんてことはよくありますよね。

要はスポーツ90点、説明力や指導力90点という掛け算で価値が生まれているわけです。

 

凡人の戦略はこれにつきます。

 

でも結構な人が「100点は取れないな」つまり「才能がないな」と感じたとき、その分野へのモチベーションを下げてしまう。

90点にすら至らずにやめてしまうのです。

無駄だと思うからですね。その努力は実を結ばないと。

でもしょうがない。成果が期待できないことに対して人はモチベーションを保てるようにできてません。

ただ、実はその努力は無駄じゃないわけです。

一つでは無価値に思えた90点は、2つ以上取れば、下手すると100点を取るよりも大きな価値になりえる。

それを知っていればまず努力を途中で打ち切りにくくなるはずです。

また、実は80点でもいい。

凡人の限界値を90点みたいな語り口できましたが、100点ではなくとも限界値に到達するのは結構しんどいです。

90点を二つ取るのには結構な時間と労力が必要となります。

でも80点なら。「そこそこ人よりできる状態」「ある程度精通できた状態」。

それならば90点に比べ、かなり少ない労力かつ短期間で達成できます。

その80点をたくさん持ってれば、それもまた大きな価値になるのです。

おまけに80点を身に着けていく中で、90点まで行ってみようかなって思える楽しさ見つけられるかもしれないし、もしかしたら色々試す中で100点が取れる分野を見つけてしまうかもしれない。

80点を取りまくることは、実はめちゃくちゃ有意義なことかもしれません。

80点男(女)。聞こえは悪いかもしれませんが悪くない気がしませんか。

 

 

 

幸せを導くための価値観形成

生きる目的はなんですかという問いの答えとして、全人類共通なのは「幸せになること」でしょう。

そのための手段として何を取るかは人それぞれですが、結局全ての行動の動機は「幸せになるため」に帰結する。

 

幸せになるために結婚するのかもしれないし、独身でいるのかもしれない。

幸せになるために健康的な食事を選ぶのかもしれないし、ジャンクフードを食べるのかもしれない。

幸せになるために辛いことから逃げないのかもしれないし、逃げるのかもしれない。

 

ある人から見ると不幸そうな行動でも、その人が行動している以上、その人にとっては何かしら幸せにつながる理屈があるはずです。

 

「甘いもの美味しいな。食べると幸せになれるな。」

と思った人がいたとします。

数日後、

「甘いもの食べると幸せだけど、太った自分を鏡で見ると不幸になるな。」

と感じ、”甘いものの幸福”と”外見が崩れる不幸”を天秤にかけます。

甘いものの幸福が勝った人は食べ続け、外見が崩れる不幸が勝った人は、価値観を修正して、甘いものを控えるようになる。

 

異なる選択ですが、それぞれに幸せの理屈があるはずです。

「色んなストレス解消法を試したけど、私にとっては甘いものを食べることが一番の解決手段で代替が効かない」

「食事が私の人生においては最も重要で、そこから得られる幸せを大事にするためなら他のことは犠牲にできる」

みたいな理屈だったり、

「太ってた時期はたくさん虐げられてきたが、痩せたら人からの評価が180度変わった。もう二度と太るなんてありえない。」

「確かに甘いものはおいしいけど、太ってまで食べるほど私にとっては重要じゃないな。」

みたいな理屈が予測できるわけです。

いずれにしても、その人の幸せを維持する理屈として成立しているわけですね。

 

こうした理屈の部分がその人の「価値観」と呼ばれるものです。

その人がどういう行動をとるかはその価値観によります。

そして価値観は日々変化してゆき、より自分を幸せにするものへとアップデートされていきます。

価値観に基づき、幸福になるための行動をした結果、予想通り幸せになれたならその価値観を継続し、思った結果と違い不幸になったのなら価値観を変えていきます。

繰り返し幸せをもたらした価値観や、自分にとって大きな出来事につながった価値観は強化されていき、簡単には揺るがなくなっていきます。

そうした価値観は自分の「核」みたいになりえるわけですね。

ほとんどの人は意識的にしろ無意識的にしろ、自分が幸福になるための価値観を追求し検証を繰り返しアップデートを重ねているのです。

 

ここで一つ言えるのは、その価値観は自分のものである必要があるということです。

自分で検証しないと価値観はよいものになっていかない。

つまり、人から「これをすると幸せになる」とか、「これをすると不幸になる」とか、そういう話を聞いただけではだダメということです。

 

「金なんて持っても幸せにならないよ。」と、お金持ちが言っていたとします。

「そうなのかー」と鵜呑みにしてお金を持たない選択を取るのは違うのです。

自分の価値観の形成は、自分の経験を通してしか行われません。

科学的にも”お金は人を幸せにしない”と言われていますが、本当にそれを理解できるのは、実際にお金を持ってみた人だけです。

そうでない人がお金も無いのに「お金は持ってもしょうがない」というのは、人の価値観を自分の価値観だと勘違いしているだけです。

自分の行動や、最終的には幸せを形作る価値観が、他人の価値観であっていいのでしょうか。それが自分を良い方向に導いてくれるのでしょうか。

人の価値観を鵜呑みにするだけでは「本当にお金を持っても幸せにならないのだろうか」という疑問がずっと残り続けます。

それだと自分の選択はこれで正しいのだという確信が持てない。

「やれることをやってきた」とは思えなくなります。

「もっとこうすればよかったんじゃないか」という思いがずっとつきまとい続けます。

そうした疑念の上に幸せは成り立ちません。

人の価値観は大いに参考にすべきですが、自分の価値観とすり替えてはいけないのです。

 

人は自分の価値観で生きなければ幸せにはなれません。

信じていた価値観が間違っていることもあるでしょう。

違かったなら修正すれば良いのです。

その繰り返しで、価値観はより盤石なものにアップデートされていきます。

こうすれば幸せなんじゃないか、こう考えれば幸せなんじゃないか。

たくさん検証し、晩年には盤石な自分なりの価値観を完成させて、

「色々あったが今が一番幸せだ」と思いながら死んでいく。

そこに至れたら最高じゃないですか。

家庭用脱毛器について

脱毛は医療脱毛一択なんて言われてますがどうなんでしょう。

確かに医療脱毛だからこそのメリットがあるにはあります。

でも医療脱毛以外は効果ないからやめとけみたいなことはないです。

あくまで医療のメリットがあり、それが重要だと思うなら医療を選べばいいというだけ。

他の手段でも脱毛は可能です。

要は毛根の「毛を生やす細胞」が壊せればいいんです。

それは家庭用脱毛器でも間違いなくできます。

というわけで家庭用脱毛器のメリットを私の経験を交えてご紹介します。

脱毛方法を選ぶ判断材料にしてください。

 

家庭用脱毛器とエステ・医療脱毛の違い

家庭用脱毛器

  • 安い
  • 自分でやるのめんどくさい
  • 痛みに対する調整が自分でできる
  • また生えてきても無料でいつでもできる
  • 1台あれば家族や友人と共有できる

 

エステや医療

  • 高い
  • 寝てれば勝手にやってくれるので楽
  • 痛みに対する調整があまりできない
  • また生えてきたら金払って通わないといけない
  • 家庭用脱毛器と違って共有できない

 

とにかく安く脱毛を済ませられるというのが一番のメリットですね。そこに魅力を感じないのなら家庭用脱毛器を選ぶ必要はありません。医療やエステのほうが楽ですし。

楽さは習慣にしやすいかってことに大きく関わります。習慣化が苦手な人だと、家庭用脱毛器は続きません。まあ続かなくても家にある限りはいつでも再開できるので問題ないっちゃ問題ないのですが、例えば運動を家で続けるのは無理でジムに通わないとって人ならエステや医療に通ったほうがいいかもしれませんね。

 

脱毛器は何を選べばいいかって話ですが、現状家庭用脱毛器で最も強力なのはレーザー照射が可能な「トリア」です。ヒゲはよほど薄くない限り多分これじゃないと対応できません。あとはVIOの濃い人に関してもトリアが安心だと思います。他の毛に関しては光脱毛器で十分だと思います。

私は最初になんとなく脱毛に興味持って買ったシャインエステボーテという光脱毛器で全身やってみて、それで対応しきれなかった毛を新たにトリアを買い足すことで処理しようとしています。今のところヒゲをトリアでやってます。

レポートしていきますんで参考にしてください。

 

脱毛経過

(定期的に更新していきます)

とりあえず買ったシャインエステボーテ

ヒゲ 効果なし

腕毛 効果あり

指毛 効果あり

ワキ毛 効果あり

胸毛 効果あり

ギャラドゥ 効果なし

陰毛(前) 効果なし

陰毛(後) 未検証

もも毛 効果なし 

すね毛 効果あり

こんな感じですね

 

効果なしに対応するために買ったトリア

ヒゲ 効果あり

ギャランドゥ 未検証

陰毛(前) 未検証

陰毛(後) 未検証

もも毛 未検証

 

ひとこと

家庭用脱毛器、色々取説に書いてあります。その通り使ってください。

私は自己責任で効果が高くなるようにアレンジして使ってますが、皆さんは説明書通りに使ってください。

肌色検出のセンサーに上から白いテープ貼って最高出力になるようにして使ってますが、皆さんはやめてください。

同じ個所に連続で複数回照射して、より毛根を焼き切れるように使ってますが、皆さんはやめてください。

脱毛をするとどんな良いことがあるの

最近は女性だけでなく、男性も脱毛するのが当たり前になりつつあります。

確かに脱毛のメリットは多い。

  • 清潔感が得られる
  • ムダ毛処理の手間がなくなる
  • 将来、介護してもらうとき迷惑をかけにくくなる

など。とりあえず3つ挙げてみました。少ないですかね。

でもこれらを「たった」3つというにはあまりにも効果が大きい気がします。

詳しく書きます。

 

・清潔感が得られる

ルッキズムの台頭で、人の評価における外見の比重が高まった昨今、清潔感は大きな武器です。

毛があることでどんな印象をいだかれて清潔感を失わせるのか、少し調べてみましたので紹介します。

 

①猿を連想させる

我々は人に進化する過程で体毛を失っていったわけですから、体毛が増えるということは猿に近づくということであり、退化を意味します。遺伝子的により人として優秀に見えるのは猿から遠い存在、つまり体毛が少ないこと。という説。

 

②生活感が出る

伸ばしっぱなしの体毛は、細部まで気を使わないことや怠惰な生活を連想させます。皆さん、きちっととするときは大抵キレイにヒゲを剃そりますよね。

 

③肌が汚く見える

基本的に肌は凹凸がなく、色が均一であるときに綺麗に見えます。ヒゲは肌をでこぼこにしますし、青ヒゲは色の均一さを失わせます。

 

④集合恐怖症の対象になる

近くでヒゲを見たり、ボーボーのスネ毛を見たときに、鳥肌が立つという人も少なくありません。これは集合恐怖症の影響もあると言われます。

 

⑤不衛生

毛があると蒸れやすくなり雑菌の繁殖や匂いなど、清潔感というか清潔さを失います。

 

清潔感と関係なくね?とお思いの人もいるかと思いますが、これらは清潔感とちゃんと関係あります。

清潔感という言葉自体、曖昧なところがありますが、最近は結構具体的に言語化されてきてるんですよね。それについて詳しくは別の機会に話すとして、とにかく「ただ洗ってある」ことが清潔感ではないわけです。そして毛はほとんどの場合、清潔感を邪魔する要素になります。

 

・ムダ毛処理の手間がなくなる

体毛の処理は結構時間取られますよね。定期的に生えてきますからそのたびに大変な思いをしないといけない。特にヒゲ。これを毎日剃らないといけないデメリットは計り知れないです。ヒゲ剃りのデメリットをいくつか紹介します。

①時間がかかる

ヒゲ剃りは、1日10分だとしても、1年で3650分。1日が1440分ですから、1年のうち2日半くらいヒゲを剃り続けてることになります。もったいない。しかも朝というめちゃくちゃ忙しない時間帯の10分ですから、よりその価値は大きいです。

②痛い

ヒゲを剃ると多少なりとも痛みを伴うでしょう。切れたり血が出たり、暫くヒリヒリひりします。

③荒れる

そもそも顔の皮膚なんて擦るな触るなって言われてる部位ですからね。毎日毎日金属を擦りつけてたらそりゃ荒れます。ただでさえ美肌から遠のきますが、さらにそのダメージは「老化」を招くことでしょう。恐ろしい。

 

 

・将来介護してもらうとき迷惑をかけにくくなる

なんの話かというと「下の処理」の話です。要は排泄物が毛に絡み、清潔に保つのが困難になる。そもそも介護してもらうこと自体大変な思いをさせているわけですが、その時の手間がより大きくなる。

また、男性の場合、伸びたヒゲをいちいち剃るのも危ないしめんどくさいみたいです。

ちなみにおじいちゃんになって毛がシルバーになると、一般的な脱毛はできなくなります。やるなら黒いうちに。

 

 

脱毛ってやる価値があるの?ということで自分なりに情報を集めてみました。脱毛することのデメリットもまああるにはあるのですが、それらと天秤にかけてもやはり自分は脱毛したほうが良いかなと感じてます。

 

ヒゲは男性毛と呼ばれる毛ですので当然うまく使えば男性性を表現するツールにもなるのですが、多くの男性は適切に扱えません。

他にも毛髪が薄くなると、ヒゲがあったほうが良かったりするのですが、それも言ってしまえばアゴヒゲだけで十分です。

また、つるつる過ぎると気持ち悪いと思う女性もまあいるにはいます。でもそれ以上にボーボーを気持ち悪いと思う人もたくさんいます。パートナーがいる方は、つるつるだと気持ち悪いか聞いてみたらいいんじゃないでしょうか。