幸せを導くための価値観形成

生きる目的はなんですかという問いの答えとして、全人類共通なのは「幸せになること」でしょう。

そのための手段として何を取るかは人それぞれですが、結局全ての行動の動機は「幸せになるため」に帰結する。

 

幸せになるために結婚するのかもしれないし、独身でいるのかもしれない。

幸せになるために健康的な食事を選ぶのかもしれないし、ジャンクフードを食べるのかもしれない。

幸せになるために辛いことから逃げないのかもしれないし、逃げるのかもしれない。

 

ある人から見ると不幸そうな行動でも、その人が行動している以上、その人にとっては何かしら幸せにつながる理屈があるはずです。

 

「甘いもの美味しいな。食べると幸せになれるな。」

と思った人がいたとします。

数日後、

「甘いもの食べると幸せだけど、太った自分を鏡で見ると不幸になるな。」

と感じ、”甘いものの幸福”と”外見が崩れる不幸”を天秤にかけます。

甘いものの幸福が勝った人は食べ続け、外見が崩れる不幸が勝った人は、価値観を修正して、甘いものを控えるようになる。

 

異なる選択ですが、それぞれに幸せの理屈があるはずです。

「色んなストレス解消法を試したけど、私にとっては甘いものを食べることが一番の解決手段で代替が効かない」

「食事が私の人生においては最も重要で、そこから得られる幸せを大事にするためなら他のことは犠牲にできる」

みたいな理屈だったり、

「太ってた時期はたくさん虐げられてきたが、痩せたら人からの評価が180度変わった。もう二度と太るなんてありえない。」

「確かに甘いものはおいしいけど、太ってまで食べるほど私にとっては重要じゃないな。」

みたいな理屈が予測できるわけです。

いずれにしても、その人の幸せを維持する理屈として成立しているわけですね。

 

こうした理屈の部分がその人の「価値観」と呼ばれるものです。

その人がどういう行動をとるかはその価値観によります。

そして価値観は日々変化してゆき、より自分を幸せにするものへとアップデートされていきます。

価値観に基づき、幸福になるための行動をした結果、予想通り幸せになれたならその価値観を継続し、思った結果と違い不幸になったのなら価値観を変えていきます。

繰り返し幸せをもたらした価値観や、自分にとって大きな出来事につながった価値観は強化されていき、簡単には揺るがなくなっていきます。

そうした価値観は自分の「核」みたいになりえるわけですね。

ほとんどの人は意識的にしろ無意識的にしろ、自分が幸福になるための価値観を追求し検証を繰り返しアップデートを重ねているのです。

 

ここで一つ言えるのは、その価値観は自分のものである必要があるということです。

自分で検証しないと価値観はよいものになっていかない。

つまり、人から「これをすると幸せになる」とか、「これをすると不幸になる」とか、そういう話を聞いただけではだダメということです。

 

「金なんて持っても幸せにならないよ。」と、お金持ちが言っていたとします。

「そうなのかー」と鵜呑みにしてお金を持たない選択を取るのは違うのです。

自分の価値観の形成は、自分の経験を通してしか行われません。

科学的にも”お金は人を幸せにしない”と言われていますが、本当にそれを理解できるのは、実際にお金を持ってみた人だけです。

そうでない人がお金も無いのに「お金は持ってもしょうがない」というのは、人の価値観を自分の価値観だと勘違いしているだけです。

自分の行動や、最終的には幸せを形作る価値観が、他人の価値観であっていいのでしょうか。それが自分を良い方向に導いてくれるのでしょうか。

人の価値観を鵜呑みにするだけでは「本当にお金を持っても幸せにならないのだろうか」という疑問がずっと残り続けます。

それだと自分の選択はこれで正しいのだという確信が持てない。

「やれることをやってきた」とは思えなくなります。

「もっとこうすればよかったんじゃないか」という思いがずっとつきまとい続けます。

そうした疑念の上に幸せは成り立ちません。

人の価値観は大いに参考にすべきですが、自分の価値観とすり替えてはいけないのです。

 

人は自分の価値観で生きなければ幸せにはなれません。

信じていた価値観が間違っていることもあるでしょう。

違かったなら修正すれば良いのです。

その繰り返しで、価値観はより盤石なものにアップデートされていきます。

こうすれば幸せなんじゃないか、こう考えれば幸せなんじゃないか。

たくさん検証し、晩年には盤石な自分なりの価値観を完成させて、

「色々あったが今が一番幸せだ」と思いながら死んでいく。

そこに至れたら最高じゃないですか。