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幸せ(S)に(N)なりたい(N)ブログ(B)

「親切」について。

優しさと一口に言っても、それは多くの要素で構成されている訳です。

代表的なのが、思いやり、寛容さ、親切などですね。

本記事で言及するのは、優しさの持つ要素のうち「親切」についてです。

 

親切とは、利他的な行動。

つまり、相手のために、自分の労力や時間といったリソースを割いてあげる行動のことです。

 

この行動は当然、「人のための行動」でもあるのですが、実は同時に「自分のための行動」でもあります。

どういうことでしょう。

 

太古、人は生存戦略として他者と協力しながら、集団・社会を形成することで有利に振舞ってきました。

それは人類の本能に刻まれていることで、今でももちろんそうした本能を私たちは持っています。

その本能に沿った行動の一つが利他的な行動、つまり「親切」です。

「人に貢献することで仲間を増やそう」ということです。

 

どうやって本能は、人を行動させるのでしょう。

その一端を担うのが「快」の感情です。

人は、生存に有利に働く行動を取ると「快」を感じるようにできています。

甘いものを食べたとき、お金をもらったとき、異性と親密な関係を築くとき。

あらゆる「快」は、生存に有利だからこそ感じる感覚です。

「快」を感じることで、その有利な行動を繰り返し取ろうと努力するようになる。

利他的行動も、生存に有利な行動であるため、当然「快」を伴います。

伴わなければ、人は人に優しくしようと思わないでしょう。

1個体だけで見れば、持っているリソースを他に割く意味なんてないじゃないですか。

 

要するに、人の行う親切という行為には、

「他者との社会的つながりを強固にする」とか、

「他者に貢献することで自分が快を得る」という目的が少なからず存在してる訳です。

利他的行為は100%相手のためではない。

それが普通です。

よく「私の親切心は結局は自分のためのものだから卑しい」と考えてしまう人がいますが、別に良いのです。

元来、親切とはそういうものです。その親切心、忘れないでください。

 

親切の目的の一つは、今申し上げた通り「仲間を増やすこと」です。

ですがこれは達成できない場合もある。

親切をしたからと言って、必ずしも相手が応えてくれるとは限らないからですね。

これが、人が親切を渋る理由でもあります。

不確かな結果を期待して、自分のリソースを割くのはどうにも気が進まないですからね。仕方ない。

 

でも、親切の目的には「快を得る」というものもあります。

これは相手の反応は関係ない。

ただ自分が、人に対して親切をすればそれで完結です。

親切から「快」を得られると知っていれば親切を渋る理由はなくなります。

「快は確実に得られるし、おまけで仲間もついてくるかもしれない。」

親切という行為に対しては、そう考えるのが得策でしょう。

 

ただ注意点もあります。

皆さんご存じの通り「快」を得られる行為は、依存のリスクを伴います。

つまり、

「それなしでは生きていけない」

「それをどんな手を使ってでも手に入れたいと思うようになる」。

そうなると正常な判断が困難になります。

生存を有利にするために「快」を感じていたはずのその行為が、むしろ生存に不利に働くようになってしまいます。

親切にもそうした状態は存在します。

 

例えば「ありがた迷惑」という行為。

すべてではありませんが、一部、この現象で説明できます。

「人のためって心地よい」って感覚に依存的になることで、行為が形骸化して「ありがた迷惑」になる。

本当に相手のためになることって、結構ちゃんと考えないとだめじゃないですか。

それを考えるのって意外と骨の折れる行為です。

「親切の快はどうしても得たい。でもちゃんと考えるのはめんどくさい。」

そんな思いが増幅していき、やがて相手のためになるかはお構いなしの見かけだけの親切になる。

 

他にも、親切の弊害は意外と多い。

・相手を自分に依存させてしまう。

・返報性を利用した搾取を成立させてしまいかねない。

などです。

 

親切は「仲間づくり」であり「快」である。

それは人生を豊かにします。

一方で、使い方を間違うと、逆に作用することもある。

そうした性質を理解して、適切に「親切」を活用していきましょう。

「使える知識」とは

頭が良いとはどういうことでしょうか。

私はクイズを嗜みます。

そのおかげで多少知ってることが多いです。

知っているといっても「問題文が与えられたときに答えられる」という程度の理解なので、たかが知れてます。

でも「知っている」というだけで、頭が良いと思ってくれる人は意外にも結構います。

「この人は自分の知らないことを知っている」と感じれば、まあそう思いますよね。

 

ありがたいのですが、でもそれって本当に頭がいいということなのでしょうか。

どうにも違うように思えます。

AIはこのように答えてくれました。

 

物知りであることは、一般的に知識が豊富であることを意味しますが、それだけでは頭がいいとは言えません。

 

とのこと。

 

そうなのです。「頭が良い」とは「物をいっぱい知っていること」ではない。

では頭が良いとは何なんでしょうか。

これもAIに聞いてみましょう。

 

頭がいい人は通常、物知りでもありますが、知識だけでなく、その知識をどのように活用するか、新しい状況に適応する能力や、他人と協力して問題を解決する能力などが含まれます。頭がいいとされる人々は、単に情報を覚えているだけではなく、その情報を理解し、応用できるような広範なスキルを持っています。

 

とのこと。

 

つまり「考える力」が頭の良さには重要であり、知識はあくまでその過程で使われる道具に過ぎないということですね。

 

知識は量ではなく活用できるかどうかが重要なわけです。

 

使える知識を身に着けるためにも、使える知識と使えない知識、何が違うのか考えてみましょう。

 

知るということには深さがあります。

どれだけ理解しているかということですね。

表面だけ知っている状態でも、知っていると一応言うことができます。

「名前だけは知っている」

「見たことはある」

こうした深い理解を伴わない状態でも知っていると言うことができます。

ただ、当然活用はできません。

なのでこの状態の知識は、使える知識ではない。

表層だけでなくても、浅い理解では活用には至りません。

活用するには、深くまで理解する必要があります。

 

また深く知っても活用できない知識というのもあります。

深さに対して、距離とでも言いましょうか。

自分から遠いところにある知識は、活用ができない。

知識の実用性のことですね。

影響の輪という考え方があります。

自分の影響できる範囲外のことについては自分の力ではどうしようもないから考えるだけ無駄だと、そういう考えです。

知識にもそういう側面があり、影響の輪の外の知識は持っていても活用できません。

有名人のゴシップや、地球の裏側の出来事、宇宙のことなど。

とにかく、自分の生活に活用できない知識は、実用性がなく、知っていても活用できません。

 

要するに「影響の輪の内側のことをできるだけ深いレベルまで知る」。

これが、使える知識を得るためのポイントになります。

 

最後に。

使えない知識は得てもしょうがないみたいな言い回しになりましたが、そういうわけではありません。

どんな知識も、好奇心の充足や、人とのコミュニケーションへの活用、思わぬインスピレーションの元となることや、脳トレなんかにもなったりします。

意味がないわけではない。むしろ人生を豊かにするきっかけになりうる。


ただ、「考えること」に貢献しない知識ばかり身に着けていると、それはやはり人生を少しばかり困難にすることでしょう。

知識ごとの用途をしっかり認識し使い分けることが大事です。



「頑張ること」に向かない人へ

私は頑張ることができません。

いつだかそのことに気付きました。

周りを見渡すと同じような人が結構いるなと感じます。

 

「頑張る」とはどういうことでしょう。

辛いけど、やる

しんどいけど、やる。

疲れても、やる。

やりたくないけど、やる。

つまり「その行為を続けることがストレスになるけど、それでも続ける」ということです。

 

一般的にはそういうのに耐え続けた先に成長が待っていると言われています。

確かにそうだと思います。

「頑張ること」に耐えられる人はそうして成長していきます。

でも耐えられない人もいる。

耐えて続けることが致命傷になってしまう人もいるのです。

なぜそうなるのでしょう。

ストレスを受けても続けられる人に対して、ストレスを受けるとダメになる人。

頑張りの先に待っているだろう成長よりも、今この瞬間の苦しみを天秤にかけたときにそちらが勝ってしまう人。

その理由は何なのでしょう。

よく言われるのは「考え方の問題」です。

だから多くのアドバイスでは、捉え方を変えれば頑張れると言われています。

確かにそれも事実です。

それで頑張れるようになる人もいるでしょう。

問題に対して、できるだけ「大した問題ではない」と捉えることは、ネガティブな感情を払拭するためには大変効果的です。できるなら全員身に着けたほうがいい。

でもそれは、あくまで原因の一端を解決する手段に過ぎず、すべてを解決するとは限りません。

ある物事がメンタルに影響を及ぼすまでには何段階かあり、それぞれの段階での処理も人によって千差万別です。

同じ出来事から、より多くのストレスを受ける人もいる。

同じ量のストレスから、より多くのダメージを受ける人もいる。

同じダメージを回復するのに、より多くの時間がかかる人もいる。

その違いの要因には「考え方の問題」以外にも、たくさんの要因が考えられます。

年齢の問題、環境の問題、病気の問題、体調の問題、性格の問題、遺伝子の問題、腸内細菌叢の問題、など上げればきりがありません。

年を取るほど面倒だと思うことは増えますし、逆に若くても経験が足りず不便なことが増えます。仲間に恵まれた環境でなければパフォーマンスは維持しにくくなるし、毒親など家庭環境が最悪なんてこともある。風邪やインフルの時は何もしたくないでしょうが、そうした不調を常に抱えている人だっています。生まれつき何らかの病気かもしれないし、後天的なトラウマなんかもありうる。病気でなくても生来ネガティブな人もいる。最近の科学では生まれ持った腸内環境が性格や体調に影響を及ぼすことも知られていたりします。

 

このように「頑張れない」を構成する要素は多岐にわたるため「考え方」を変えただけではどうにもならないことも大いにあるわけです。

 

ただ、そもそもですが、成長に「頑張ること」は必須なんでしょうか。

成長を、頑張ることで手にしている人は確かに多いです。

でももっと掘り下げてみると、おそらく成長を導いているのは「継続」です。

本人は頑張っていると思っていないのに、継続することで成長を導いている人だってめちゃくちゃいます。

楽ちんに、疲れを感じないところまで、ストレスのない状態で、苦労を伴わなくても、ぬるくても、続けることで成長することも人はできるはずなのです。

 

なぜ世間では、ぬるい環境に身を置くことが批判の対象にされるのでしょうか。

厳しい環境こそ正義だといわれるのでしょうか。

 

恐らくこうです。

世の中の大抵の人はやりたくないことをやらざるをえない環境にいます。

彼らはその環境下で成長してきました。彼らにとってはそれが全てです。

実際はやりたいことしかやらなくても、成長はできるんですけどね。

それに気付いている人もいるでしょう。

「別につらい思いをしなくてもうまくやれてる奴はいっぱいいる」と。

ただ、その事実に気付いているかはあまり関係がない。

人は自分のやってきたことは正しいと思いたい。

自分が払ってきたコストには大きな価値があると思いたい。

それらを意味のないことだと思うことは、自分の作り上げてきた価値観を壊すことになる。自分の人生を否定することになる。

だから「苦しむこと」は正しいことで、価値のある事だと、みんな言うのです。

 

しかし、成長の本質は継続すること。

別に苦労しなくたって良いのです。緩く、ぬるく、楽しく、楽に、続けられるやり方で続ければいいのです。

 

私は努力が苦手で、頑張ることもできない。

何度か厳しい環境に身を置いたほうが成長が見込めると信じて、そうしたこともありました。

結果は散々だったのですがね。

小休止のつもりで仕方なくぬるい環境に身を置くと、なぜか逆に伸び始める。

ずっとそうでした。

そうして、自分は厳しい環境よりも、ぬるい環境のほうが伸びるのだと確信するようになりました。

どうしてそんなことが起きるのか掘り下げたことがあるので書いてみます。

 

まず、ぬるい環境は自分のできることだらけだから自己効力感が高まり、なにより楽しい。だからモチベーションが沸く。そうすると、放っておいても時間の投下量は増え、自分から発展的なことをやろうとする。工夫しようと色々考える。その間、もちろん努力している感覚はない。全く苦しくない。ただ楽しんでるだけ。気づけば勝手に成果が出ている。

対して厳しい環境は、楽しくない。自分の能力以上の要求をされるからできないことだらけで自信を失っていく。それでも最初は、こなくそと気張るのです。でも、そんな状態は長くは持たず、やがて糸が切れるとモチベーションがどんどん下がっていく。というか目の前の課題を無意識に避けようと考えるようになっていきます。積極性がなくなり、やれと言われた最低限しかやれなくなっていく。それどころか、最低限すらこなせなくなっていく。そうして、状況は悪化の一途をたどります。

 

とまあn=1ではありますがこんな具合です。

 

頑張ること、努力することは、圧倒的正義とされます。

頑張ったり努力したりすればみんな褒めてくれます。

頑張りや努力は万人に効く薬のように吹聴されている。

生まれ持った性質で、頑張っている状態を継続できる人はそうすればいい。

 

でも頑張れない人もいます。

別にそれでいい。成長の本質は継続であり、そこには頑張りや努力は必須ではないのです。

セロトニンを分泌させる方法まとめ

幸せとは何でしょうか。

多くの場合、幸せを感じていないのだとすれば、その根本原因は「力のなさ」にあると思われます。

自分の理想や望みを実現するだけの力がないせいで幸せを感じることができない。

行動をして、常に100点の結果を実現できるなら、人生に不満は発生しえないでしょう。

幸せになりたいなら、理想や望みを実現するための力をつけることです。

とまあ取り付く島のない話はここまでにして。

 

幸せとは何かを考えたとき、その一つの側面として「脳内ホルモンによる作用」というものがあります。

力をつけると幸せになるってのは、脳内で幸せを感じるホルモンが分泌される機会や時間が増えるからとも言えます。

ただ、この脳内ホルモンは、力がなくてもトリガーさえ知っていれば分泌させることができます。

そのトリガーを知っておけば、付け焼刃ではありますがインスタントな幸せを感じることができる訳ですね。

 

というわけで幸せホルモンセロトニン分泌のトリガーをたくさんまとめてみます。

ご活用ください。

 

生活習慣と健康

  • 毎日の運動を取り入れる(例:30分のウォーキング、ジョギング、サイクリングなど)。
  • 毎晩十分な睡眠を取る(例:7〜9時間の睡眠を確保する)。
  • 野菜、果物、全粒穀物、健康な脂肪を含むバランスの取れた食事を摂る。
  • マグネシウムを摂取する。
  • 発酵食品からプロバイオティクスを摂取する。
  • 朝食を摂る
  • 良質なセロトニンサプリメントを使用する。
  • ヨガやピラティスなどのエクササイズを行う。
  • ドーパミンを促進する活動に参加する(例:有酸素運動、音楽を聴く)。

自己ケアとリラックス

  • 深呼吸を行う。
  • 香りのよい入浴剤を使用してリラックスする(例:ラベンダーやカモミールの入浴剤)。
  • 自然の中で散歩する(例:森林浴やビーチウォーキング)。
  • マッサージを受ける。
  • コメディ映画や面白い本を読んで笑いを楽しむ。
  • 瞑想やマインドフルネス練習を行う。
  • 毎晩寝る前にストレッチやリラックスしたポーズをとる。
  • 家の中の不要な物を整理して断捨離を行い、ストレスを減らす。

社会的つながりと活動

  • 家族や友人と定期的に会う(例:週に1回の食事会や散歩)。
  • ペットと遊んだり散歩したりしてストレスを解消する。
  • 地域のボランティア活動に参加する(例:地域清掃、ホームレス支援)。
  • 自分の良い点や達成したことについて感謝し、ポジティブな自己肯定感を高める。
  • 友人や家族に感謝の気持ちを表し、励まし合う。
  • 自分の成功や成果を自己評価し、小さな成功を祝う。
  • 心理的ストレスを軽減するために、ハグや身近な人との触れ合いを増やす。

環境と感覚

  • 毎日、太陽光を浴びる。
  • 自然の景色を楽しむために公園や自然保護区に行く。
  • エッセンシャルオイルを使用したアロマセラピーを試す。
  • リラックスするためのBGMや自然の音楽を聴く。
  • 毎日1〜2杯の緑茶を飲む。
  • 室内で緑の観葉植物を育てる。

成長と創造性

  • 新しい趣味やスポーツに挑戦する(例:料理、写真撮影、ガーデニング)。
  • アートや音楽を楽しむために美術館やコンサートに行く。
  • 自分の感情や食べ物との関係に注意を払い、食事にマインドフルネスを持つ。
  • 自分の感情や経験を表現するために絵を描いたり、音楽を作ったりする。
  • 自分の強みや成長に焦点を当て、肯定的な自己評価を高める。

物を捨てる以外に部屋を整理する方法は一応あるという話

空間がメンタルに与える影響は意外と侮れません。

遊園地などの楽しい空間だとワクワクとした気持ちになるでしょうし、自然豊かなキャンプ場なんかだと爽やかな気分になったりする。

逆にきったない駅のトイレにいるのが一番気分が良くなるみたいな人はいないと思います。

 

こういう気分の変化は自分の家でも起きています。

多くの人は、家にど落ち着ける場所としての用途を持たせています。

睡眠や、食事、その他リラックスのための時間。

他に用途を持っていたとしても、大半は落ち着いて過ごせる必要のある用途です。

 

そうである以上自分の家は整理整頓されている必要があります。

 

じゃないと休息に使われるという本来の用途を満たせず、日常のパフォーマンス、ひいては人生の満足度を下げかねません。

 

その点で、部屋の整理は大事です。

 

というわけで、部屋の整理についての話です。

 

まず最も大事なのは、必要な物以外は持たないということです。

ミニマリズムの体現ですね。

ミニマリズムと言うと、ただ物を減らせばいいと思われがちですが、そういうわけではありません。

元々のミニマリズムとは「完成度を追求するために、装飾的趣向を凝らすのではなく、むしろそれらを必要最小限まで省略する表現スタイル」のこと。

その人にとって必要ならば、洋服を何百着と部屋に置こうがミニマリストです。

(ファッションモデルやデザイナーの方なら当てはまるでしょう。)

 

ただ、ミニマリズムを取り入れようとするときに、皆が困ることとして「なにが本当に大切か分からない」という問題があります。

 

それもそのはずで、本当に大切なものというのは、人生の晩年で明らかになっていくものだからです。自分の価値観を明らかにして、それに従って生きていこうと思えたときに、ようやく見えてくるものです。早くとも40代。それ以降も価値観の探求は続きます。

ですから、人生半ばの段階では、基本的には分からない。

 

まあ分からなくても、適当に捨てていけば部屋は見かけ上、綺麗になっていきますので、捨てることができるのなら捨てて行きましょう。

片付けインフルエンサーが「部屋の片づけのポイント」みたいなのを発信してくれていますので、それに沿ってどんどん捨てましょう。

 

でもそれではうまく行かない人もいるはずです。

人生の序盤は物を集めてなんぼですから。まずは持ってみて、必要なら持ち続け、要らないなと思えば手放す。その繰り返しで、大切なものを見極められるようになっていくのです。持たなければ、必要かどうかは永遠に分かりません。

 

そんな人のために、物を減らす以外に、部屋が整って見える方法というのを考えていきます。

ではどうぞ。

 

物が多くても部屋を整えてみせる方法。

大まかに言ってしまうと、配置に法則性を持たせると言うことです。つまり、ランダムな配置ではなく、人の意図を感じさせる配置をするということです。

 

まず第一に「形の工夫」です。

・左右対称になるように

・背の順になるように

・上端が同じラインに来るように

・三角形になるように

・中心線の延長上になるように

などです。

煩雑に物を置くのではなく、意図しないとその配置にはならないという置き方をするのです。校庭で児童が背の順に整列していると、その空間に要る人数は同じでも、整って見えますよね。昼休みの校庭とは光景が異なるはずです。それと同じことを部屋のなかでもするのです。

西洋の庭なんかは、このやり方で整理された空間を演出しています。

左右対称だったり、植木も特定の形に綺麗に切りそろえられてますよね。

 

第二に「グルーピング」です。

・用途が似たものが必要な場所にまとまるように

・グループに見えるように

・色がそろうように

・形がそろうように

などです。

カラフルなマーブルチョコレートを想像したとき、ただ皿の上に出すのと、色ごとに分けて皿の上に乗せるのとでは、受ける印象が変わると思います。似た性質のもの同士でまとめられると整って見えるからですね。

洗面所には洗面用具を、その洗面用具もヘアケア用品、選択用品、お風呂用品、などでグループ分けすることで綺麗にみえる。

また、同じ部屋内でもそうした切り分けは有効です。

寝るスペースとそこに必要なもの。

テレビを見るスペースとそこに必要なもの。

食事するスペースとそこに必要なもの。

服のコーディネートを組む場所とそこに必要なもの。

こういった具合です。

そうやって用途ごとにまとめられていない場合、どんなに物が少なくても違和感を覚えてしまいますので、ミニマルな状態を実現できたとしても覚えておく必要のあるテクニックですね。

 

第三に、「使いやすいようにする」です。

・自分の身長に合わせて

・使う人の体格に合わせて

・通るときに邪魔にならないように

・使う時に適切なサイズになるように

これで整って見えるのは違和感が排除されるからですね。

例えば子供部屋に背の高い家具がたくさんあったり。

洗濯機からベランダまでの経路がすごく狭いとか、最短距離を塞いでるとか。

部屋のサイズに比べてテレビが小さめとか、テレビからソファの距離が離れすぎているとか。

人は、受け取る情報が多いほど、整っていないと感じてしまいます。

使いにくさを感じるとそれも違和感という情報になって、整っているという感覚を邪魔するのです。

こちらのテクニックもまた、物が少ない状態でも意識すべきテクニックですので覚えておいてください。

 

最後に、

この方法は、物を減らさないでもある程度整理整頓を実現する方法です。物がある以上、生活感はぬぐえません。その点はご留意いただきたい。

ですから、結局まずやるべきは、今わかる範囲で要らないものを減らすこと。

ゆくゆくは、完全に必要最低限の物しかない状態を目指すこと。

そのうえで、現状をよりよく見せるために配置の工夫をすること。

上記に沿わなくても、「意図を持って配置する」ということを心がければ、大抵の物は整って見えてくれます。

また最低限の物しかない空間においても、紹介した第二・第三のテクニックは必要になってきますのでぜひ覚えておいてください。

というわけで快適な空間づくりに役立ててくださいませ。

 

補足として、一般にオシャレで快適な空間づくりの方法として言われる観葉植物を置きましょうとか、小物で飾りましょうみたいなのは、部屋が十分片付いた後にやることですから、片付いていないうちからやるのは避けてください。上級者のたわごとです。上級者になってから実践しましょう。

あと、無計画に収納を増やしていくのもやめたほうがいいです。収納の容量に合わせて物は増えていく傾向があります。物を減らしたいと考えているときに、収納の数を増やすのは悪手です。

「何もしない」というのは現状維持ではなく、後退だよという話

「何もしない」というのは現状維持ではなく、後退だよという話です。

 

どういういうことか。

 

まず現状維持とは、なにも状況が変わらないことです。今の状況をキープすることですね。

しかし、我々の世界において、何も状況が変わらないことなどあり得ません。

時間の経過とともに何かが必ず変わっています。

一日中家でテレビを見て過ごしていても、何もせずただ布団の上で寝て過ごしていてもです。

 

何が変わるのかというと、例えば歳を取ります。死ぬまでの日数が一日減ります。

老化により見た目や、身体機能も1日分衰えるでしょう。

ひげやムダ毛も1日分伸びるし、筋肉や脂肪も1日分増減します。

1日分記憶は古くなって、そのうちどれかは忘れ去られるかもしれません。

友人とも1日分疎遠になります。

また世界では新しいことが起きているはずですから、自分の知らない世界の何かが1日分増えたりもします。

 

1日毎の変化は微々たるものでしょう。

しかし何もしない期間が長くなれば、それは確実に大きな変化となります。

 

いつの間にかめちゃくちゃ老けている。

いつの間にか体が動かなくなっている。

いつの間にかみすぼらしくなっている。

いつの間にか孤独になっている。

いつの間にか無知な人になっている。

 

そんな事が起き得ます。

それの一番困る点は、いざ行動したいと思う機会が訪れた時に行動できなくなる可能性があるという点です。

 

新しいチャレンジをするための若さがない。

新しく事業を始めるための知識や経験、信用がない。

新しいパートナーを見つけるための魅力がない。

 

こうしたちょっと挑戦的なこともそうですが、もっと根本的な部分で深刻な事態も発生しえます。

 

体力づくりをするための体力がない。

知識を得るための知識がない。

人間関係を作るためのコミュ力がない。

オシャレな服を買いに行くための服がない。

 

みたいな。

要は本当に何も出来なくなる可能性があるということです。

これは間違いなく「後退」でしょう。

そうならないためにも、我々は毎日行動していく必要があるのです。

 

「行動する」と言うと、「前に進むための行動」ばかりに焦点が置かれがちですが、実際には、「現状を維持するための行動」というのもあるのです。

現状維持は前進を伴わないものですから、大きな価値を見出すのは少し難しいかも知れません。

でも前に進むための行動をとるには、そもそもそれを実行できるだけの準備が整っていないといけない。

そういう意味ではむしろ現状維持のための行動のほうこそ重要とも言えるでしょう。

 

具体的に何が現状維持の行動かと言えば、収入の確保や貯金、勉強、運動、健康管理、スキンケアや体系維持、服装の探求など身だしなみを整えること、定期的な友人や家族との時間の確保、好奇心を刺激すること、メンタルコントロールなどなど。

やることはめちゃくちゃ多いです。大変ですね。

 

こうした現状維持のための行動は、前進している感覚を伴いにくいため、やっていると不安になることもあるでしょう。

「前に進んでいる感じがしない、この努力になにか意味がるのだろうか」と。

しかし明確に意味はあるのです。

確かに「前に進む行動」には価値があります。

でも、その前段階としての「現状維持するための行動」なしには、実現されません。

 

 

まとめると、

  • まずは「行動しないこと」は「後退」であると知る。
  • そして「前に進む行動」以外にも「現状維持の行動」があると知る。
  • 成果が見えにくくても「現状維持の行動」を続けることが前に進む地盤を築く上で重要だと知る。

そうすることで自分のやっている行動にもし目に見えた成果が感じられなかったとしても、続けるモチベーションになるはずです。

話し合いは口下手からすると、ただ相手の意見を飲むだけの場である

「話し合い」というのは一見平和的な解決手段のように思えます。

確かに、ケンカするのに比べれば圧倒的に平和でしょう。

暴言も暴力も伴わないですから。

 

正しく行えれば確かにそうなのです。

でも必ずしもそうはいかない。

話し合いに臨む人の性質次第で、それはとても不平等な物になりえます。

 

世の中には「口下手」といわれる人たちがいます。

自分のことだったり考えを、あまり言葉にできない、もしくはしない人たちですね。

彼らの人生において話し合いは大抵「ただ相手の意見を押し付けられるだけの場」となります。

 

一般的に「健全な話し合い」というのは自分の主張Aを述べ、相手の主張Bを聞き、それを踏まえたうえで二人が納得する折衷案Cを導くというものです。

(「どちらかの主張のみを採用すること」ではない点が重要ですね。)

 

でも口下手な人は、自分の主張をうまく相手に伝えられません。

それは、そもそも言葉にするのが苦手とか、人としゃべるときは緊張しちゃうとか、相手に遠慮して言えないとか、争いごとが苦手とか、理由は色々あるでしょう。

 

いずれにせよ、自分の主張をうまく伝えることが困難ですから、基本的には相手の主張がほぼそのまま採用される事になる。

本当は納得いってなくても、一般的には公平な手段とされる「話し合い」で決めた以上は納得したことにするしかない。

口下手にとって話し合いは不平等この上ないことなのです。

 

「それは自分の意見を主張しないその人の責任だろう」と突き放すことは可能でしょう。

 

確かに少しでも自己主張ができるようにと心がけることは必要だと思います。

そのほうがいくらか人生が快適になるはずです。

(お困りの方がいましたらアサーティブコミュニケーションについて調べてみてください。)

 

でも、ビジネスの場でならいざ知らず、日常での話し合いにおいて必ずしもそうするべきなのでしょうか。

 

私が今回「話し合い」をする相手として想定しているのは家族や恋人、友人といった関係の人たちです。

つまり大切にしたいと思っている相手です。

 

そんな相手に「言わなかったあなたが悪い」と言うべきなのでしょうか。

 

自分の主張が言えない彼らの背後には、ほとんどの場合、謙虚さがあるのだと思うのです。

「私が我慢することで、この人のためになるのなら」という。

そんな思いのもと仕舞い込まれてしまったその人の主張を、放置すべきなのでしょうか。

本当にその人を大切だと思うのならば拾ってあげたいと思いませんか。

 

相手の主張を待って、出てこなかったとき、それは自分の意見をそのまま通していいというサインではなく、「もっと相手の心に寄り添うことができるのだ」というチャンスなのかもしれません。

自分の才能を人に聞くときに持ちたい心構え

何かを習得し、人より上達したいと考えたとき、それを分解して考えると次の3つが必要だと思われます。

才能。

方向性。

投下時間。

この3つです。

才能が無いことには十分に上達しないだろうし、方向性が間違っていても上達しません。人より時間をかけない人が、人より上達することもできないでしょう。

 

今回はその中から才能の見つけ方について掘り下げてみます。

 

才能があるかないかはやってみれば大抵明らかになります。

だからまずは着手せよということになるのですが、これまでの人生でやってきたこともたくさんあるでしょうから、事前に判明している場合もあります。

その判断としては「結果が出ているか」を見ればいい。

自分で結果が出ているころがわかればもう始めちゃって良いです。

方向性の判断という次のステップに進んでください。

でも、多くの人は自分ができることは皆もできると考えてしまうため、自分の才能を自覚できていない。

 

簡単な方法としては、人に聞いてみることです。

親しい友人や親、自分のことを分かってくれてそうな人たちに聞くのです。

私の才能って?得意なことってなんだと思う?と。

大抵の場合、自分よりも他人のほうが的確にあなたの才能を言い当ててくれます。

言ってもらったとき「そんなことないよ」と思うでしょう。

多分ですが、言ってくれた相手もあなたのその性質を100点だと思って言ってはいません。

集中力あるよね。勉強得意だよね。運動神経いいよね。手先が器用だよね。気配りがうまいよね。優しいよね。行動力あるよね。仕事覚えるの早いよね。仕切るのうまいよね。

何を言われるかは分かりませんが、相手がどういう意図で言っているかと言えばこうです。

「私がこれまで付き合ってきた人間の平均を見たとき、その平均よりもあなたは上に位置してるよ」

この程度です。

私も集中できないときはできないよとか、勉強なんてもっとできる人いっぱいいるじゃんとか、部活は関東大会どまりだったしとか、自分では未熟だと思える能力でも、平均より上というならば、それは強みです。

その才一つで社会を渡り歩けるほどの能力ではなかったとしても、活かさないでおくにはもったいない。

そうした才能も複数かけ合わせれば、比類なき才能となりえますから、気付かずに放置してしまうことは避けたいです。

とにかく、人に聞くときは、今の話を前提にして聞いてみてください。

本当にトンチンカンなことを言われる可能性もありますが、すべてがそうだと決めつけずちょっと考えてみるのです。

意外と自分の才能に気づけます。

 

他にも、他人の直感も意外と当てになったりします。

初対面の人にかっこいいですよね、美人ですねってよく言われる人って、実際に人よりも顔が整ってるものですよね。

中にはお世辞も混ざるでしょうが、そうだとしても顔立ちのよくない人より「整っていること」を指摘される回数は多くなる。

お世辞でたまに言われてるだけなのを勘違いしてはいけませんが、初対面の人や関係の浅い人にたくさん言われる誉め言葉なんかも実は才能を見つける参考になったりします。

頭がいい人も、頭がいいですねと人より多く言われるし、優しい人も優しいですねと、仕事ができる人も仕事できそうですねと言われるでしょう。

心当たりがないか、ちょっと掘り下げてみてください。

 

人の意見である以上、あくまで参考にするというのが正しい姿勢であることに注意は必要ですが、それを踏まえて活用していただければと思います。

心への考察から科学とスピリチュアルの交差点に行きついた

自分と地続きな情報だけが信じられる情報です。

例えば「コーヒーを飲むと眠気が覚める」という情報があったとします。

それを人から聞いただけでは地続きとは言えません。

自分で飲んでみて、実際に眠気が覚めたと実感できたときようやく地続きと言えます。

科学とは、誰かがどうやら地続きらしいことを証明してくれた事柄のことです。

きちんと自分で検証していけばちゃんとその情報の元まで歩いていける。

それが科学の性質です。

でも、自分で検証しなければ、科学も地続きでない情報と区別がつきません。

地続きでない情報とは、例えば魔法のようにこの世の誰も地続きらしいと証明できていない事象のことです。デマとかもその類ですね。

科学も検証しなければそれらと大差がなくなる。

魔法と科学が同じように見えるという事がよく言われますが、それは科学という島への地続きとなる道を知らない場合のみで、その道を知っている人からすれば科学は決して魔法と同じではありません。

でも多くの人は道を知りませんから、科学による現象がどうしてそうなっているか分かりません。

なぜAIが人間のように考えて答えを出してくれるのか、その答えを知っている人はごくわずかなはずです。

間違いなく人類が作り上げたのだから掘れば皆ちゃんとわかるはずなんですが、ほとんどの人はそんなこと分からない。

だから科学は魔法みたいなのです。

 

コンピューターは、トランジスタというものに電気が通っている時を1、通ってないときを0と認識します。

膨大な数のトランジスタをもって、たくさんの0と1を組み合わせることでコンピューターはあらゆることを実現させています。

なんでも答えてくれるAIも、メールの送信も、動画編集も、インターネットも何もかも。

こうした魔法のような技術は、突き詰めれば全部0と1の組み合わせという至って単純な要素で構成されています。

まあ、そう聞いても不思議なんですけどね。なんで0と1の組み合わせでAIが機能すんねんって。

 

この機構と似たものを私たちは備えています。脳です。

私たちの脳は、ニューロンという神経に電気が通る状態と通らない状態を組み合わせて機能していると言われています。

これはコンピューターの動く仕組みと同じ仕組みと言えます。

人間の脳の働きは突き詰めればニューロンの通電という極めて単純な要素に分解される。

でも我々はそれを普段認識していません。

一つ一つは単純なニューロンでも、1000億以上組み合わさればその複雑さは人が一度に理解できる領域を超えます。

コンピューターと同じように脳が実現するあらゆる機能も魔法に見えるのです。

なぜ人は考えることができるのか、物を覚えることができるのか、会話できるのか、動けと思うとなぜ手は動くのかとか。

中でも不思議な脳の機能として「心」というものがあります。

抽象的な概念ですが、これも実はニューロンの複雑な組み合わせによる産物で、複雑すぎて理解できないだけであり、分解すればニューロンのオンオフという極めて単純なものに行きつくと、そういう説もあるのです。面白い。

 

心というものが本当に単純なニューロンの組み合わせによるものかは、わかりません。実際、人知を超えたもっと他の要因があるかもしれない。魂とか霊とか、今はスピリチュアルとされている領域のことが科学の領域に含まれるようなことがあれば明らかになるでしょう。

実際、脳のニューロンの数と同じ1000億のトランジスタを搭載したコンピュータというのはすでに存在しているらしく、それだけの複雑なコンピューターをもってしても心を持っているとはやはり言えないのが現状です。

心は複雑な働きによって構成されているが、分解すれば単純なニューロンのオンオフに行きつくという説は、大方はあってそうな気がするんですけどね。

まだ材料が足りないみたいです。

なにが足りないのやら。誰か早く地続きの道を見つけてくれないかな。

「書き出すこと」はなぜ洞察を深めるのか

マジックナンバーというものがあります。

これはワーキングメモリに関する数字で、人が同時に扱えるタスクの数や短期記憶できる事柄の数を表しています。

それがいくつなのか、そもそも正しいのかということに関しては色々と議論がありますが、何が言いたいのかというと基本的に人の頭は同時に複数のことをするのが苦手だということです。

同時にやると大抵の場合片方は疎かになります。

それどころか、片方に注意が向くと、もう片方の事はすっかり忘れてしまったりもします。

電子レンジで物を温めている間、ちょっと他のことをしてたら温めてたものの存在をすっかり忘れたりとかありますよね。

中には大容量のワーキングメモリを持っていて、多少のマルチタスクには耐えうる人も居ますが、大抵の人はそうは行きません。

普通の人はマルチタスクをすると、どちらのタスクも十分にこなせず、そのモヤモヤにより作業中ずっとストレスを受ける事になる。これはメンタルに良くないです。

作業の難易度やワーキングメモリの大きさによっては、大したストレスにはならないこともありますが、基本的にはシングルタスクが推奨されています。

 

この制約は日常生活のあらゆる場面で不便な思いをさせてきます。

 

具体的なタスク同士が干渉し合う例を上では言いましたが、他にも、緊張とか不安とか気がかりとか、そういうのもこのワーキングメモリを逼迫してきます。

不安な時は物事が手につかなかったり、過緊張状態だと頭が真っ白になったりしますが、それはワーキングメモリが不安や緊張に使われてしまうからですね。

ワーキングメモリの容量が多いと、マルチタスクから受けるストレスが軽減されるだけでなく、こうした緊張、不安、気がかりにも強くなります。

だから鍛えるとメンタルに良いんですね。

 

またこのワーキングメモリの容量に制限があることは「考える」と言う行為にも不便を強いてきます。

簡単なことを考えるときは同時に複数のことを考える必要は無いですが、複雑なことを考える際は、同時に複数のことを頭に置きながら考えなければなりません。

で、言ってきたように多くの人は複数のことを同時には扱えませんから、複雑なことを考えることは基本的にはできないと言っていい。

Aのことを考えて、それを踏まえてBのことを考えて、Cについても考えなければならないし、Dについても考えなければならない、とやってるうちにAのことについては頭から抜け落ちたりするわけです。

またAについて考えなおして、そうすると今度はBが抜けるからBもまた考えてと、こんな具合で思考がぐるぐると回り続け先に進めない。

悲しい事実ですが、一部の人以外は複雑な事を考えることが、実はそもそもできません。

 

んじゃお手上げかと言われると、そんなことはなくて、ワーキングメモリを疑似的に増やす方法はちゃんと存在します。

それが「書き出す」という方法です。

頭で考えたことをワーキングメモリに保存しながら考えるのではなく、紙などの別媒体に保存しながら考えるのです。

思考の整理にはジャーナリングが適しているよとか、文章を書くことこそが考えることだよとか、何かと書き出す行為が思考や考えの万能薬のように言われますが、これは書く行為がワーキングメモリ不足を補うからにほかなりません。

 

書きだすことを習慣にしていない人は、深く物事を考えて答えを出すという割と重要な積み重ねをしていないことになります。そうなると、色んな物事への理解は浅くなり、場合によっては自分自身についてすらきちんと理解できなかったりする。そりゃ悩みも増えるでしょう。

 

深く考えることをしなくても、一応大丈夫なように人の頭は設計されていて、その救済プログラムの名前を「直感」といいます。これは、今ある知識や経験といった材料を脳が瞬時に整理し答えを導く機構で、材料さえ揃っていれば大抵は働くし、間違っていることも少ないです。

ただ、直感によって導き出された答えの理由を、本人は把握できていません。

直感に頼って行動していれば間違うことは少ないですが、自分がなんでそう行動したのかがわからないままになります。

それだと問題が起きたとき、その問題を修正できません。

人の悩みを聞いていると、結構な割合でそこに原因があるなと感じます。

理解が浅いとか、感情の起点となっている事柄に行きついていないとか。

私も人のことは言えないので、やはり深く考えることは重要だなと思う次第です。