優しさと一口に言っても、それは多くの要素で構成されている訳です。
代表的なのが、思いやり、寛容さ、親切などですね。
本記事で言及するのは、優しさの持つ要素のうち「親切」についてです。
親切とは、利他的な行動。
つまり、相手のために、自分の労力や時間といったリソースを割いてあげる行動のことです。
この行動は当然、「人のための行動」でもあるのですが、実は同時に「自分のための行動」でもあります。
どういうことでしょう。
太古、人は生存戦略として他者と協力しながら、集団・社会を形成することで有利に振舞ってきました。
それは人類の本能に刻まれていることで、今でももちろんそうした本能を私たちは持っています。
その本能に沿った行動の一つが利他的な行動、つまり「親切」です。
「人に貢献することで仲間を増やそう」ということです。
どうやって本能は、人を行動させるのでしょう。
その一端を担うのが「快」の感情です。
人は、生存に有利に働く行動を取ると「快」を感じるようにできています。
甘いものを食べたとき、お金をもらったとき、異性と親密な関係を築くとき。
あらゆる「快」は、生存に有利だからこそ感じる感覚です。
「快」を感じることで、その有利な行動を繰り返し取ろうと努力するようになる。
利他的行動も、生存に有利な行動であるため、当然「快」を伴います。
伴わなければ、人は人に優しくしようと思わないでしょう。
1個体だけで見れば、持っているリソースを他に割く意味なんてないじゃないですか。
要するに、人の行う親切という行為には、
「他者との社会的つながりを強固にする」とか、
「他者に貢献することで自分が快を得る」という目的が少なからず存在してる訳です。
利他的行為は100%相手のためではない。
それが普通です。
よく「私の親切心は結局は自分のためのものだから卑しい」と考えてしまう人がいますが、別に良いのです。
元来、親切とはそういうものです。その親切心、忘れないでください。
親切の目的の一つは、今申し上げた通り「仲間を増やすこと」です。
ですがこれは達成できない場合もある。
親切をしたからと言って、必ずしも相手が応えてくれるとは限らないからですね。
これが、人が親切を渋る理由でもあります。
不確かな結果を期待して、自分のリソースを割くのはどうにも気が進まないですからね。仕方ない。
でも、親切の目的には「快を得る」というものもあります。
これは相手の反応は関係ない。
ただ自分が、人に対して親切をすればそれで完結です。
親切から「快」を得られると知っていれば親切を渋る理由はなくなります。
「快は確実に得られるし、おまけで仲間もついてくるかもしれない。」
親切という行為に対しては、そう考えるのが得策でしょう。
ただ注意点もあります。
皆さんご存じの通り「快」を得られる行為は、依存のリスクを伴います。
つまり、
「それなしでは生きていけない」
「それをどんな手を使ってでも手に入れたいと思うようになる」。
そうなると正常な判断が困難になります。
生存を有利にするために「快」を感じていたはずのその行為が、むしろ生存に不利に働くようになってしまいます。
親切にもそうした状態は存在します。
例えば「ありがた迷惑」という行為。
すべてではありませんが、一部、この現象で説明できます。
「人のためって心地よい」って感覚に依存的になることで、行為が形骸化して「ありがた迷惑」になる。
本当に相手のためになることって、結構ちゃんと考えないとだめじゃないですか。
それを考えるのって意外と骨の折れる行為です。
「親切の快はどうしても得たい。でもちゃんと考えるのはめんどくさい。」
そんな思いが増幅していき、やがて相手のためになるかはお構いなしの見かけだけの親切になる。
他にも、親切の弊害は意外と多い。
・相手を自分に依存させてしまう。
・返報性を利用した搾取を成立させてしまいかねない。
などです。
親切は「仲間づくり」であり「快」である。
それは人生を豊かにします。
一方で、使い方を間違うと、逆に作用することもある。
そうした性質を理解して、適切に「親切」を活用していきましょう。