一緒にいる人が「穏やかな人間である」ということはとても大切だと感じます。
生きてりゃ誰でもミスはします。
そんな時に許してくれる人。
一緒にいりゃ何かしら不満は溜まるものです。
それを打ち明けた時に「我慢させて悪かったね」と向き合ってくれる人。
一緒にいるなら、きっとそんな人がいい。
生活の中で山ほど起こりうる些細なことに、いちいち目くじらを立ててくる相手との生活はストレスフルであることは想像に容易い。
決して、何にも怒らないことがいいという訳ではないです。
悪意をもって接してきた相手に、きちんと権利を主張することは大事です。
そういう時は「怒り」という武器を、むしろ使ったほうがいいこともある。
怒りはそういうときのためにあるものです。
生物が怒りという感情を備えたのは、権利が脅かされたとき、それを侵されないため。
怒りは自分にとって脅威となる相手の行動や考えを変えさせ、自分を守るための道具なのです。
でも、相手の故意でない不手際程度のことにいちいち「怒り」を持ち出すのはよろしくない。
感情をぶつければ、そもそも疲れます。
それに、その場では解決したように見えても、必ず後に尾を引く。
潜在意識下に小さな恐怖を芽生えさせ、生活の中での振る舞いを徐々に萎縮させていく。
だんだんと一緒にいることに息苦しさを感じるようになっていくことでしょう。
また、怒りを気軽に使う人間は相手をコントロールしようとする傾向が高い人間です。
本来怒りは「脅威となる行動」を変えさせるために使われる道具です。
でもそうじゃない場合でも、単に「相手の行動」を変えるのにも普通に使えてしまう。
怒りの悪用とでも言いましょうか。
知ってか知らずか、怒りを多用する人はそういう性質を利用してくるのです。
そんな人間と長くは付き合えないでしょう。
長期的な人間関係を築きたいと思うならば、相手は穏やかな人であったほうがいいはずなのです。
それは寛容さともいいます。
価値観の違いを受け入れ、必要以上に干渉してこないこと。
関係性を揺るがしかねないものならいざ知らず、些細な違いはスルーできる。
別に無関心というわけではないです。
違うことを受け入れて、否定したり、同調するように言ってこないだけです。
むしろ違うことに興味を持ってくれたりもする。
価値観の違いや、その価値観を形作る思考を面白いと思ってくれる。
あなたのことを大事だと思ってくれているのならば、きっと価値観の違いは理解しながらも、興味を示してくれることでしょう。
そうした姿勢は、相手を思いやれるからこそ生まれる姿勢です。
相手の心情を慮ろうとし、嫌な思い、辛い思い、苦しい思いをさせたくないという思いの表れです。
彼らはなぜそう思えるのか。
きっと経験してきているのです。
とても嫌で、辛くて、苦しいことを。
そんな経験をしたときの感情を良く知っているからこそ、同じ思いは二度としたくないし、相手にもさせたくないと思えるのです。
出来ることなら、嫌で辛くて苦しい思いは、したくない。
ただ、経験してしまったとしても、それは無意味ではない。
大切な人ができたときに、その人を幸せにすることができるようになるからです。