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幸せ(S)に(N)なりたい(N)ブログ(B)

考えるという行為は、自分を保つための行為でもある

私は物を調べるのが好きです。

勉強して知識をつけて、それを実践して成果が出たり、人に伝えてその人の役に立ったりするととても嬉しい。

だから勉強を続けています。

でも、むやみやたらに情報を詰め込むだけでは、問題が起きる可能性があるよという話があるので、今回はそれを話します。

 

勉強をしていると、知識を得ても得ても「頭の中が空っぽだ」という感覚に陥る人がいます。

私もそうでした。というか今もそうです。

知識を得て、成果は出てるけど身になっている気がしない、満たされないって感じですね。

 

これは恐らく、学んできたことのほとんどが「こうらしい」という形で自分の中に蓄積されてしまっていることが原因です。

つまり自分主体の「こう思う」がない。

 

それは言い換えれば「自分以外の誰かの考えで頭が埋め尽くされた状態」です。

「頭の中が空っぽだ」という感覚の正体はこれになります。

 

これを解消するには自分の頭で答えを出して「こう思う」で頭を埋め直していくしかない。

他者の考えではなく自分の考えで頭を満たすということです。

 

勉強をするなとか、人の言うことを聞くなということではありません。勉強は大事ですし、人の話は聞きましょう。

ただ、それはあくまで自分の思考過程を補助するための手段であるべきで、情報を得ること自体が目的となってはいけない。

いけないわけではないですね。自分の頭が他人の考えで埋め尽くされても問題ない人であれば、単なる情報の蓄積も「歩くGoogle」みたいになれていいかもしれません。便利は便利です。

 

ただ多くの人にとって、自分の尊厳やアイデンティティ、価値観や人生の意義といったものは非常に重要で、それを健全な状態に保ちたいのであれば、やはり、極力自分の考えで頭は埋めておく必要がある。

 

「考える」という行為は、当然何かの答えを導くときにする行為ですが、自分を保つためにも実はめちゃくちゃ重要な行為なわけです。

 

 

学校教育が割と、人から言われたことをそのまま覚えるって感じですからね。あんまり考えることに比重が置かれてない。「今回は勉強していると~」みたいな書き出しにしましたが、そうじゃない人でも結構な割合で「こうらしい」状態の蓄積をしていたりするんじゃないかなと思います。

 

「こうらしい」で蓄積してると、例えば健康情報なんかを効果も感じていないのになんとなく続けちゃうとか、状況によって臨機応変な対応が求められていても規則に則ってしまったりなんてことをしちゃいがちです。

あとは単純に考える癖がないもんだから、答えが簡単に出ない問題と遭遇したときに適切に考えられなかったり、重度だとそもそも自力で解決するという発想自体がなかったりします。答えがないなら無理じゃん!みたいな。

んでそうしているうちに「こうらしい」に埋もれ、自分というものを見失っていると。

 

考えることの尊さを知ってはいるつもりでも、結構体力使うもんだから結局ただ頭に放り込んで終わっちゃうことも多いんですよね。直さねば。

瞑想について読んだので、気になったことを

瞑想についての記事を読んだので、気になったことを紹介します。

 

瞑想を「変性意識状態」として位置付ける見方もある。上智大学グリーフケア研究所の葛西賢太は、瞑想を「日常生活の諸問題の整理や見直し、再活性化を意図して、日常の時間の中に、一定の時間を区切って、通常とは違う意識状態に自覚的に切り替えること、また、その方法」と定義している。葛西賢太は、通常意識状態と変性意識状態の往来を「意識変容」と呼び、「意識変容を自覚しているマインドフルな状態」を瞑想の基本的な状態(瞑想的意識状態)であると考え、この定義に当てはまるすべての行為を広い意味で瞑想ととらえることを提案している。

変性意識状態ってのは、「目覚めてはいるけど日常的な意識状態とは違う意識状態」のことですね。他に薬物使用時などの意識もこれに当てはまります。

「変性意識状態に自覚的に切り替えること」「通常意識状態と変性意識状態の往来を自覚している状態」といったことが瞑想の定義という見方は、確かに包括的な感じがしますね。



瞑想による特異な体験として、

  • 変化しやすい強烈な感情
  • 深いリラクセーションと高度の覚醒
  • 知覚の明晰さの高まり
  • 心理的プロセスや心理的移動説への感受性の向上
  • 身体を含めた対象物の知覚に関する変化や流動性の増加(対象恒常性の減少)
  • 精神的コントロールの困難さに対する自覚
  • 特に集中力を失わず、空想に陥らないようにすることのむずかしさの自覚
  • 時間の感覚の変化
  • 変性意識
  • 他者との一体化の体験
  • 防御心の減少
  • 体験への開放性、などがある。

とのことです。瞑想を繰り返していると、こうした体験ができる可能性があると。普通に生きてても中々感じられないことなんで、こんな体験してみたいな~ってのも瞑想のモチベーションになるかもしれませんね。個人的には「他者との一体化の体験」とかはどんな物なのかちょっと興味あります。



宗教学者鎌田東二は、狩猟・漁猟を行っていた人々が、その技術を向上させるために修練し、それが武術や武道、スポーツとなり、また宗教的な行や瞑想になっていったと考える。生きるためには食べる必要があり、人は生きるために命を殺害するが、人にとって命を食べることは、命がけの宗教的・呪術的行為であった。狩猟は命の交換の行為であり、狩猟民は、命がけで動物たちとの戦いに挑み、その中で自然への畏怖の気持ちを高め、同時に恐ろしい動物を前にしても立ち向かうことができるよう、自己をコントロールし、動物と戦うために自己と戦わなければならなかった。鎌田東二は、このような心のコントロール・制御の方法を開発する道程から、夢見法や瞑想、観想が生まれ、さらにそのような集中や制御が、止観や禅を生み、山を歩き走ることが、山岳跋渉や修験道を生んだと考える。

なんで人類が瞑想という行為をするようになったかとか考えたことありませんでした。瞑想ってのは最初、野生動物と戦ったり、命を奪ってしまうことなどの恐怖から自分を守るためにのメンタルコントロールの手段として生まれて、そこから色んなことに派生していったのではないかってことですね。面白い。



あるがままを観察し、受け入れるという東洋の思想は、1960年代にアメリカのヒッピーたちが注目し、彼らは精神的な成長を求め、ヒンドゥー教由来でインド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが広めた超越瞑想や日本の禅仏教を学び、アメリカや東南アジアで修業をした。

ヒッピーも瞑想してたんですね。ヒッピーっていうとビジュアルばかりが思い浮かびますが、彼らの思想を辿れば確かに瞑想やっててもおかしくないな。



超能力を覚醒させることを目指すシルバメソッド等、自己啓発セミナーでも瞑想が利用されている。

私は使えませんが、瞑想で超能力使えるようになったら嬉しいなってちょっとなりました。シルバメソッドってなんだ?と思ったので今度調べてみます。



アメリカの自己心理学者クリスティン・ネフは、社会的な競争に勝つことで自尊感情を高めることが幸福につながるという考えに疑問を呈し、仏教の思想に基づいてセルフ・コンパッション(自分への慈悲、思いやり、優しさ)の研究を行い、自尊感情が高くなくてもセルフ・コンパッションが高い人は、自分を受け入れ、幸福を感じ、不安や抑うつが低いという研究結果を示した。ネフは、セルフ・コンパッションを、マインドフルネスを包含し相補する概念として提示しており、ジョン・カバット・ジンやマインドフルネス認知療法創始者マーク・ウィリアムズも「マインドフルネスはコンパッション(慈悲)を含んでいる」と述べている。

瞑想とは少しずれますが、やはり幸福には「自尊感情を高めること」が第一で、その後「自尊感情が高くなくても幸福を感じる方法があるよ」ってんでセルフコンパッションが注目されたわけですね。セルフコンパッション大事!って最近はすごく言われてますけど、自尊感情を高く保てるのならべつにセルフコンパッションは必要ない気が個人的にはしているんですよね。私には必要ですが。



多くのスピリチュアルなコミュニティには、現実逃避や、現実の問題に魔術的な解決がもたらされることを期待して、瞑想などのスピリチュアルな実践に熱中している人も少なくない。トランスパーソナル心理学者・精神療法家のフランシス・ヴォ―ンは、瞑想や様々なスピリチュアルな実践に向かう人の態度に見られる問題として、スピリチュアル・アディクション(スピリチュアル中毒、スピリチュアル依存)をあげており、「スピリチュアリティへの強い欲求やこころざしには、本質的に自己の責任の放棄という要素が含まれるため、外的対象に依存しがちになり、アディクション(中毒)に陥る傾向がつねに強く潜在している」と注意を促している。精神医学や心理学が、スピリチュアルな実践を病理的なものと考えたり、疑いの目で見るのは、こうした一部の実践者たちの現実逃避的な態度も影響している。現実逃避的な人が瞑想などのスピリチュアルな実践を行う場合、依存が起きやすく、一度依存してしまうと抜け出しにくい。スピリチュアルな実践を行う自分を特別だと思い上がったり、スピリチュアルなもののみに価値を見出すような生活の破綻が起こることもあり得る。まだ自我が確立されていない場合、スピリチュアルな実践が弱い自分の自己評価を高める道具になってしまう恐れもあり、罪からの解放や浄化を目指す場合には、実践全てが贖いの儀式と化してしまうこともあり得る。

超能力について上で触れましたが、もちろんこうした注意は必要ですよね。超常的な力は確かに現実で抱えている問題を全て解決してくれそうな気がしてしまうんですが、それに全振りしてしまうと、生きていくうえでやらねばならないことを放棄しかねませんからね。宝くじが当たる前提で仕事を辞めてしまう、みたいな。こうしたスピリチュアルはロマンがあって私も興味深いなとか思っているたちですが、確証がない以上、あくまで娯楽の範囲で留めておくのが吉でしょうね。宝くじと同じように。今後科学が解き明かしてくれることに期待しましょう。そのころには私たちはもういないでしょうが。



集中的瞑想が深まり、次なる段階への入り口に差し掛かると、「すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な解放感」が湧き上がることがあり、瞑想者がこれを瞑想の最終的な到達点と勘違いすることが少なくない]。シュード・ニルヴァーナ(偽涅槃)と呼ばれており、瞑想が深まる過程の正しい一段階であるとみなされているが、強烈な幸福感を伴うため、この体験に夢中になってしまったり、悟りの境地に達したと信じてしまうものもいる。伝統的な瞑想では、こうした体験を指導者がチェックし、瞑想者が正しく認識するよう導くよう体系化されており、このような体験とは距離を取って接するように指導される。

偽の涅槃でも、この境地は体験してみたいなあ。チベットのお坊さんとかは一日10時間とか瞑想するらしいですが、何をモチベに?って思うんですよね。もしかしてこれじゃない?舐めたこと言ってすみません。

怒ってるときに言うことを真に受けちゃいけない

「ケンカするほど仲がいい」なんて言葉がありますよね。

「仲が良い相手とは接触機会も増えるからケンカも増える」とか、

「仲がいいことで相手に遠慮しなくなりケンカが増える」とか、

そういうようなことでしょう。

ちょっとこれとはズレてるかもですが、確かに私にも、大喧嘩したおかげで友情が深まった、なんて経験があるにはあります。マンガみたいですね。

ただそれは稀なケースで、ほとんどの場合ケンカをすれば多少なりとも相手との関係がこじれます。

 

ですから私としてはやはり、

「ケンカは避けられるなら避けたほうがいいな」なんて思うわけです。

疲れますしね。ケンカって。

 

できることなら、ケンカになる前に普段から話し合いをしておくべきです。

ケンカに頼らずとも「自分の思っていること」を「相手を尊重した形」でお互いに伝え合うことはできますから。

そういう関係を「アサーティブな関係」と言ったりしますが、それがベストです。

 

とはいうものの、それでもケンカになってしまうこともある。

そういうものですよね。

 

ですからケンカになってしまったときに、どうすべきかってのを少し考えてみましょう。

万が一のケンカに備えて、できるだけ関係がこじれないよう、どう行動すべきかということです。

まずケンカの時は、お互い感情が昂り冷静さを失います。

思いついたことを後先考えず、次から次へと相手にぶつけてしまうことでしょう。

そこで注意すべきは「それを普段から思っているかどうか」です。

なぜなら、感情が昂っているとき我々は「嘘」を言うことがあるからです。

つまり「思ってもないこと」を言ってしまう恐れがある。

「あんたなんか親じゃない!」

「もう別れましょう!」

普段から思ってることなら、100歩譲って許しましょう。

でも大抵、こういう発言は感情に任せて言っただけの嘘だったりします。

そうであるなら、言わないほうがいい。

ケンカ中、そういう嘘を思いついたとき、思いとどまれるなら思いとどまってください。

 

それができれば苦労はしない笑。

 

冷静じゃないときですから、大抵勢いに任せて言ってしまいますよね。

その時その瞬間は本心のような気がしちゃいますもんね。

そういうもんです。

なので、もし言ってしまったあと、冷静になってから「あれは本心じゃなかった」と振り返れるなら、あとでちゃんと訂正しましょう。

相手はあなたの嘘を本心だと思ってしまっているでしょうから、放っておいたらダメです。

「本当はあんなこと思ってないよ」と伝えましょう。

冷静になった後ならば、相手もきっとわかってくれます。

あなたが大事な人だと思っている相手なら、相手もそう思っているはずですから。

 

そしてまた、相手の「感情に任せた発言」も、まずは本心じゃないと思って聞くべきです。

冷静になった後に、普段から思っていることか、できれば確認しましょう。

そうすることでケンカの被害を最小限に抑えられるはずです。

 

 

最初に言いましたが、まずはケンカを避けるために普段からアサーティブな関係を作っておくのがベストです。

その上で、ケンカになってしまったら「普段から思っていることかどうか」を考える。

そうすることでケンカのダメージを最小限に抑えられると、そういう話です。

 

 

また、実はケンカってのは、自分の心がけだけで解決できる問題だったりします。

つまり、相手が怒っているかどうかは関係ない

どういうことか。

ケンカが成立するのは「二人ともが怒り、冷静さを失ったときだけ」だからです。

一方が冷静であり続けられれば、ケンカは起こらない。

自分の怒りをコントロールできるようになるってのは自分の精神衛生上だけでなく、人間関係維持という観点でもすごく大事なわけです。

 

 

言葉にすると分かった気になれるけど、実際は分かっていないのでは

世界は、なんだかよくわからないものに溢れています。

宇宙とはなにか。

生命の存在理由は。

神はいるのか。

いやあ分からん。

でもこういう壮大な人知を超えたようなことだけじゃないです、分からないものというのは。

 

例えば、そのスマホ。なんで動いているか分かりますか。

タッチするとなんで反応して、どうしてインターネットと繋がっているのか、ダウンロードするだけでどうしていろんな機能が使えるようになるのかとか。

Appleで実際に作っている人なら全てに答えられるでしょうが、基本的に我々はよくわからないまま使っている。スマホだけじゃない。全部そうです。

車がなぜガソリンで走るのかとか、飛行機はなぜ飛ぶことができるのかとか。冷蔵庫はなぜ冷たいかとか。

人知を超えた何かだけじゃなく、人工物に対してさえ、我々の頭はよくわかってない。

 

そして、分からないものに対して人はストレスを感じるようにできていたりします。

例えば、この風船はいつ割れるか分かりませんといって持たされるのと、1分後に割れますと言われて持たされるのどちらがより安心かといえば、後者ですよね。まあ割れてほしくないですが。

他にも、何をしでかすか分からない人と一緒にいるよりも、行動に一貫性のある人のほうが安心しますよね。

基本的によくわからないものを人は恐れる。

不確定なものを恐れるようにできているわけです。

 

でもまあ別にスマホを恐いとは思っていません。

え、なんでタッチすると動くの怖っ!とか

インターネットとつながるの怖っ!とはならないわけです。

 

そんなこといちいち怖がってたら生活に支障が出ますからね。

ではどうやってわからないものへの恐怖を克服しているのでしょう。

 

いくつか要因は考えられて、日常的に触れ続けているからとか、そういった慣れの要素もあるんでしょうが、

 

「言葉にできるから」

 

ということも一つ重要だったりします。

 

「これはなんですか?」と聞かれたときに「スマホです。電話とカメラとパソコンの機能を備えた手のひらサイズのデバイスです」みたいに言葉として答えられるかどうかってのが結構重要なのです。

 

昔から、人類はそうしてきました。

突如暗くなった上空に轟音とともに走る光の線を「カミナリ。神様が怒ったときに現れるもの」と言ったり、科学の未熟な時代はよくわからないものは全部とりあえず神様のせいにすることで納得したりしてます。

 

果ては、なんだかよくわからないものをひっくるめて「イデア」とか「空(くう)」とか言ったりもしますよね。もはやなににでも対応している訳です。すごい。

 

なんにせよ、言葉にすることができると、人は分からないものを分かったような気になれる。不安が消えるわけです。

 

そのものの原理原則がわからなくても、言葉にできれば不安は消えるというのは結構使える機能だったりします。

 

漠然とした不安は書き出すと落ち着くというテクニックありますよね。ジャーナリングとか、エクスプレッシブライティングとか言われてたりしますが。

これも、その機能が一躍かっているはずです。

 

言葉にできると知った気になれる。

とても便利ですが、なんでも知っていると勘違いしないようにしたいですね。

情報との適切な距離感の保ち方

なんとなく色んなことを「そうなのか~」と受け入れながら過ごしていますが、考えてみたら本当かどうか分からないことまで信じちゃってたりしますよね。

エイプリルフールの日にそう思いました。

 

私は根拠みたいなのを割ときっちり求めるほうではありますが、その根拠だって自分で確かめていない以上本当かどうか分からない。

というか自分で確かめたものだって、本当かどうか分からなかったりします。

例えば、今自分は夢を見ているだけの可能性もありますから。

目を覚ましたら全て嘘でしたなんて可能性もゼロではない。

 

結局、人が物事を信じるかどうかの判断基準ってのは、本当かどうかよりも、自分が納得するかどうかな訳です。

 

というかそうせざるを得ない。

だって全てに完璧な根拠を求めていたら信じられるものなんか何もなくなりますから。

デカルトは「我思うゆえに我あり」なんて言いました。

自分が思っているということは「その思っている自分の精神」は確実に存在する。

みたいなことらしいです。

それ以外は信じられない。だから、そこを出発点にしていない情報は全て信じられない、と。

 

まあよくわからんですが、結局、デカルトさんみたいな天才でもない限り、完璧な根拠を細かいことにまでいちいち求めていたらやっていられないということです。

だから納得さえできるのであれば、とりあえずはそれでいい。

 

ただそうすると問題が出てきます。

自分が定めた納得の基準によっては客観的に見て「あの人はヤバイ情報を信じすぎじゃないか」とか、そういう感想を抱かれることも出てくるわけです。

 

まあ本人が幸せならそれでいいんですが、実際のところ、あまりに荒唐無稽なことを信じすぎると、結構な確率で後悔することになったりします。

 

それを避けるためにするべきことが「信じる」とは逆の行為。

すなわち「疑う」ということです。

何事も100信じずに、いくらかは疑っておこうということですね。

こうすることで、途中まで信じてしまっていても、ある瞬間に「ヤバイ」と気付ける可能性が格段に上がります。後悔する前に踏みとどまれるようになる。

つまるところ、「クリティカルシンキング」をしましょうということなんですがね。

「情報を疑問深く分析し、論理的に評価する思考スキル」のことです。

 

そして「疑う」ということにはもう一つ大事な点があります。

「100信じない」というのが重要だと言いましたが、同じくらい「100否定しない」というのも重要だということです。

どんなに自分の中に無いことでも、1くらいは本当かもしれないと思っておくという姿勢です。

言い換えると「自分を100信じない」「自分を疑う」。いわゆる謙虚さですね。

 

「信じる」と「疑う」。

これら真逆のアクションをぶつけバランスをとることで情報と適切な距離を保てば、完璧な根拠などなくても結構うまく生きていくことができるよと、そういう話でした。

「不安」について

ある説によると、人は不安を排除することはできないと言います。

 

その説明としては、以下のようなことが考えられます。

 

・不安は危機から自分を守るための感情であり、完全に安心した状態では、突如として現れた危機に遅れを取る事になる。だから人類は常に何らかの不安を抱えている状態を選んだ。

 

・未来とは、いくら考えつくしたとしても、とどのつまりは不確定なもの。人類が未来を想像する事のできる生き物である以上、未来への不安が拭えることなどない。

 

・人はいつだって死と隣り合わせである。その事実を常に意識はしていなくとも、潜在意識で我々は常に死を意識し、その不安を抱えているのだ。

 

・人が生まれた次の瞬間に泣き始めるのは、生まれながらに不安を抱いた状態だからだ。

 

などです。

 

つまりこの考えに乗っ取れば、誰だって満たされることは永遠にないのです。

人類にとって不安な状態はデフォルトな状態である。

これは絶望的に聞こえたりもしますが、「不安」というものはありふれた存在で「不安が無くならないこと」に悩む必要はないのだという視点を与えてくれたりもします。

いくらか救いになる考えでもあるでしょう。

 

ただ、だからと言ってすべての不安を放置するのは悪手です。

なぜなら対処できる不安もあるからです。

上記の拭い去れない不安というのは、人類が生まれながらにして持つ、原因不明もしくは根本的に解決不能の不安です。

 

しかし、そうじゃない不安もある。

「経済的不安がある」「人間関係の不安がある」こうした不安は、具体的な解決手段のある不安になります。

不安の総量が減る余地があるのならば、これらに対しては諦めることなくアプローチしていくのが最善だといえます。

 

そのとき、不安の持つ以下の特性を考えると役に立つかもしれません。

 

不安には「人に行動の動機を与えてくれるもの」という側面もあります。

人が行動するとき、その原動力は二つです

 

一つは「期待」。

行動をすることで何か自分にとって良いことがあると思えたときですね。

 

そしてもう一つが「不安」です。

自分にとって悪いことが予測されたときに、それを避けようとして行動するパターンです。

 

不安を感じているという事は、自分の悪い状況を変えるチャンスであるとも捉えられます。

 

 

不安といえば、ネガティブな物と考えがちですが、必ずしもそうではないのです。

もしネガティブな側面しかないものならば、人類は進化の過程でとっくにその機能を捨てていることでしょう。必要だから残ってる。であるならば、どうして必要だと人類は判断したのか。本来はどういう目的を持った昨日だったのか。それを知ることで、活かすことも可能なのです。

 

現代社会は文明の発達により、人が備えた本能という機能が誤作動を起こしているケースが非常に多く見られます。この「不安」に悩む人が多いという事態もその一つです。

 

情報に踊らされることなく、自分に合う食べ物を探る

結局、健康的な食事とはなんだろうか。

「これは体にいいよ!」

インフルエンサーのこういう情報を信じることでしょうか。

「〇〇大学の研究でいい効果が証明されたよ!」

エビデンスがあるからこれなら信じられるかもしれません。

でも恐らくこれらを信じることではない。

エビデンスがあろうがなかろうが、これらはあくまで「参考にする情報」にとどめるべきです。

 

では何を第一の指標にするべきでしょう。

結論から言えば「自分の検証結果」。

食べてみて、体調が良くなるか悪くなるか変わらないか。

これを検証し積み重ねていくのです。

体調の良くなったものは食べ続ければいい。

悪くなるものは食べるのを止めればいい。

変わらないものは別にどちらでも。

めちゃくちゃ当たり前で、至ってシンプル。

自分の経験を第一の食の指標にするべきで、健康情報はそれを探るためのあくまで参考情報にするべきです。

 

私もそうでしたが、意外と健康情報を第一に考えて、それに踊らされている人が多い。

そもそもですが、健康情報の性質は基本的には「人類全体の傾向」です。

つまり個人に必ずしも当てはまらない。

食べてみて、自分には合わないことだって全然あり得ます。

 

例えば私の場合、ヨーグルトがダメです。

健康食品の大一角に位置するヨーグルトがダメなのです。

でもずっと食べていた。

「ヨーグルトは発酵食品だから体にいい」これを盲信してのことです。

でも実際のところ、私は乳製品がダメです。

乳製品でお腹を下す人は結構多いですが、その症状の原因である「乳糖不耐性」が私の場合強めなのです。

ですから発酵食品の良さ以上に、乳製品の悪さが強く表れ、私にとってヨーグルトは総合的には体に悪いものになる。

 

私の場合は乳糖ですが、中には発酵食品自体が体に悪さを働く人もいたりします。

食べものに対する人の反応は、確かに傾向はあるものの本当に千差万別なのです。

 

健康情報と違い個人の経験の積み重ねは、地道ではありますが自分に必ず当てはまる。

その積み重ねが結局、健康的な食事を作ることなのです。

 

何をすべきか。

・まず食べものに対する自分の反応をしっかり認識すること。

・そして食べたものと、その時の体調の変化を記録すること。

これをやるだけでだいぶ変わります。

 

食べものの中には即日体調に変化が出ないものもあります。

記録を見返すことで、体調の変化を感じたときに「あ、この食べ物を食べ始めたときに体調が悪くなってる」「この食べ物を食べていた時はそういえば体が軽かったな」といったことがわかるようになります。

 

私の場合、グルテンが悪いと気づけたのは記録からでした。

まずグルテンが悪影響を及ぼしているかもしれないと外部から情報を得て可能性を認知しました。

そして食べ物を記録し、その体調の変化を観察し続けた。

結果グルテンの摂取でお腹を壊し、グルテンを控えるとある程度症状が治まると判明しました。

それまでは、そもそも自分がグルテンに反応しているなんて思いもしなかった。

認識しようとし、それを記録することで気付けました。

そうした気づきは他のヨーグルトをはじめとしたほかの食品でも起こり、その積み重ねで今は自分の体調を食べものである程度コントロールできるようになっている。

 

当たり前のようで、意外と実践するとなるとできないもんです。

地味な手法ではありますが、結局実を結ぶのはこういう地道な努力の積み重ねです。

 

神はどこにいるのか

スピリチュアルなタイトルですが、神様という概念はこういう機能を持っているよねという実利の話です。

スピリチュアルもそこそこ好きなので、何か考えが沸いたら書くかもしれません。

 

人が悪事を働くとき。神様はそれを見ている。

そういうと人は悪事を働く前に思いとどまりやすくなります。

人の目があると悪いことはできないですが、神様という概念を持ち出せば、例え周りに人がいない空間でも、人の目を意識させ、悪事を抑止できます。

この考え方は人類をより「善く」する。素晴らしい考え方です。

 

不運に見舞われたとき。きっとこれは神様が与えた試練なんだ。

そういうと、人はネガティブな出来事をポジティブに変換できます。

フレーミングというやつですね。

認知行動療法なんかにも近い考え方はあるでしょう。

大きなストレスを受けたときに、物事の捉え方を変えることでそのストレスを小さくできる。

用意された環境がたとえ劣悪な環境でも、神様の試練という概念を持ち出せば、皆ある程度皆耐えます。

かつて人類が経験してきたどんな苦境も、きっとこの考え方が一つの助けになっていたはずです。

 

努力がなかなか報われないかもしれないが、神様はきっと見てくれている。

そういうと、人はモチベーションを保つことができます。

人は誰かから評価されたり、成果や報酬を目に見える形で受け取れないと次第にモチベーションを失います。

しかし神様が見てくれていると考えれば、過酷な条件でも評価や報酬を想像でき、モチベーションを保てます。

今日の人類の発展はきっと、この考え方があったからこそでしょう。

 

こうした効果が発揮されるとき、神様はどこにいるのかと考えると、それは想像する人の頭の中です。頭の中で想像した神様という存在の視線や存在を感じることで、人は自分の行動や考え方を変えます。本当に神様が存在していても、していなくても、想像さえできれば関係ないのです。

つまり「神は私の中にいる」といえます。

 

他にも神様という概念を持ち出すと、理解できない現象を途端に理解できたりします。

太陽は私たちを見守ってくれている神様。月も。

雷は神様が怒っている。嵐も地震そう。

まだ科学が無かった時代。人々にとって得体のしれない恐怖の存在は、神様という概念を持ち出すことで理解の及ぶ物になります。

よくわからなければ天変地異の恐ろしさはより増幅される。

人は未知のものに恐怖を抱くからです。

しかし、神様というフィルターを通して理解の及ぶ物に変えてしまえば、そうした不安や恐怖は減ります。

こういう時神様はどこにいるかというと「世界全てが神様」といえるでしょう。

 

神様という概念は、時に人の行動を律する手段となり、時に理解の及ばない難解なものを理解するための手段となる。人が生み出したすごーく便利な概念。そういう側面を持ちます。

人生の攻略本が欲しい

私はゲームをするとき、最初は自力で攻略したいけど、ある程度攻略が終わったら攻略本を読むってタイプでした。

どっちも楽しいんですよね。自力攻略も、攻略本読んでの攻略も。

 

自力攻略ではうまくいくことだけじゃないんで、「うまくいかなかったここは次こうしたらうまくいくんじゃないか」とか、色々と試行錯誤しながらの攻略していく。

そうすることでワクワク感がずっとあったり時には脳汁ブシャーみたいな体験もできて、そういうところが楽しかった。

 

一方、攻略本を読んでの攻略も楽しいことはありました。

ここにこんな隠し要素があったのかとか、

NPCが使ってたこのかっこいいやつってここで手に入るんだとか、

こう育てればより強い個体になるのかとか、

今まで自力ではできなかったことができるようになりプレイがより快適になる。

その感じが好きでした。

設計意図がそもそもそうなっているんでしょうが、多分ゲームを最大限楽しむには、どちらも必要なんでしょう。

その好みのバランスは人によって違うでしょうが、何にしても最初から攻略本読んでたら試行錯誤のワクワクはなくなるし、攻略本読まなかったら便利な要素に気付かないまま永遠に不便な思いをしながらプレイすることになるのでもったいない。

 

 

考えてみたら勉強って、人生という名のゲームの攻略本を読むことに等しいですよね。

経験をおろそかにして全てを机上の勉強から得ようとしたら頭でっかちなつまらん人生になるでしょうが、かといって勉強しなかったら多分めちゃくちゃ不便でずっと人生ハードモードです。

攻略本として現代人が最も多く利用しているのは科学だと思います。

でも考えてみると科学って、人類がずっと積み上げてきた攻略本のごくごく最近の章だけなんですよね。ページ数でいうとめちゃくちゃ少ない。

もっと古くから壁画やら文学やら哲学書やら宗教やら様々な形で情報は積み重ねられ続けている。

もしかしたらアカシックレコードみたいな形で、もっともっと昔の、宇宙ができたころから情報は蓄積され続けているかもしれない。

アカシックレコードはまあ考えないにしても、やはり科学以外のそっちも読んだほうが良くないですかと最近よく思います。

私はこれまで科学こそ絶対みたいな感覚で生きて来ました。

エビデンスがないことは信じない!みたいな。

科学以前の情報ってそういうのあんまないじゃないですか。

エビデンスがないのはちょっと不安だななんて思いながらも、実際は科学以外も学んだほうが遥に多くが学べるんじゃないかって気がしてます。

まあ今さら雷を見て「神様がお怒りじゃ!」とかなろうとは思っていませんがね。

そんなこんなで、中でもより強く食指の動く感じのした仏教や易経あたりを少しかじってみようかななんて思ってます。めちゃくちゃいい攻略本になる気がして。

というのも既にほんのちょっとだけかじってるんですよ。先っちょをちょっとだけですが。

めちゃくちゃ抽象的でマジでわかりにくいなって感想なんですけど、本質ってのは抽象的なものですからね。そこはもう仕方ない。

抽象を理解するためには、自分の中にある具体をその抽象に当てはめていってみる必要があるんですけど、一つの抽象を理解するだけでも、相当数の具体が必要になってきますから、自分の中にたくさんの具体がないといけない。つまりできるだけ多くの経験と知識、教養や知恵ですね。

ちゃんとわかるまでには相当な年月というか、一生かかっても無理かもしれないですけど、やるだけの価値はありそうだなとなんとなく思ってます。

マッチョが何故モテるか考えてみた

昨今の筋トレブーム。

ちょっと意識の高い人は多かれ少なかれ筋トレしています。

・健康を保つため

・体を絞るため

・自己コントロール感を得るのに最適だから

その有用性が広く知らしめられた今、筋トレを行う理由は様々でしょう。

 

そしてこんな人も居る。

・モテたい。

筋トレをすると恐らくモテます。

でもそれは、女性が筋肉を好むからというわけではなさそうなのです。

 

一部、筋肉を好む女性も確かにいます。

でも大抵「程よい筋肉が好き」くらいで、ボディビルダーのような男性を好む人は少ない。

筋肉があればあるほどいいとは、殆どの女性は思っていません。

筋肉自体に魅力があるのなら、あればあるほどモテるはずです。

また、我々は普段から上裸で歩いている訳ではありません。

筋肉を見せる機会自体そんなに多くない。

なのになぜか筋トレしている人はモテるようになるのです。

そのことからも、筋肉事態の魅力というよりは服の上からでもわかる別の要素がモテに繋がっているのだということがわかります。

ではなぜ、筋肉をつけることでモテるようになるのか。

細かく言えば色々あるでしょうが、最も大きな要因は「頭が小さくなるから」です。

痩せるから顔の脂肪が落ちて頭が小さくなるという訳ではありません。

頭の大きさ自体が変わるわけではない。

じゃあ何かといえば、体の大きさ、主に肩幅や胸板が増すことで、相対的に頭が小さく見えるからです。

筋トレで頭が小さく見えるからモテる。あんまり聞いたことない説ですね。

でも多分真理です。

 

身長の高い男はモテます。これに賛同しない人はいないでしょう。

身長というのは、特別な要素です。

少し暴論ですが、身長さえ高ければ他は整っていなくてもある程度モテます。

背が高いだけでときめくという女性は、意外と少なくない。

ではなぜ身長が高いとモテるのか。

もう少し深ぼってみると、これも様々な要因がありますが、要はスタイルが良いからというところにたどり着きます。

スタイルの良さは、良い遺伝子の証です。それが異性をひきつけるのです。

黄金比のように、人が潜在的に本能で美しいと思う比率が体のバランスにもあり、それを満たすときスタイルが良いと感じる。

(ですから「身長が高いとモテる」だと若干語弊があって、「身長が高いとスタイルがよく見える確率が増すのでモテやすい」が正確です。)

 

スタイルの良さには、2つあります。

脚の長さ

頭の小ささ

脚が体に対してある比率になると、美しいと感じ、

頭が体に対して、ある比率になると、美しいと感じる(頭身と言われるやつです)。

その「ある比率」で美しいと感じた結果、「脚が長い」と「顔が小さい」と形容されます。

身長が高いと、頭身が高くなる確立は上がり、脚が長くなる確率も上がります。

ですから高身長はモテる傾向にあるのです。

身長が高くても、脚が短く、頭がデカければ多分モテません。

高けりゃ高いほどいいなら、進撃の巨人に出てくる巨人たちを我々の目は魅力的だと感じるはずですが、そうは見えませんよね。

逆に身長が低くても、顔が小さく、脚が長ければモテます。

 

筋トレは、このうち頭を小さく見せるのに非常に効果の高い事なのです。

ですから、筋トレをして、肩幅や胸板が増すと、モテるようになるというわけです。

ただそれは男性だけ。女性の場合、肩幅の広さは女性らしさを損ねることになりますから。

女性はその代わりヒールがはけます。(男も身長は盛れますが)

男性の皆さんはとにかく筋肉つけましょう。