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瞑想について読んだので、気になったことを

瞑想についての記事を読んだので、気になったことを紹介します。

 

瞑想を「変性意識状態」として位置付ける見方もある。上智大学グリーフケア研究所の葛西賢太は、瞑想を「日常生活の諸問題の整理や見直し、再活性化を意図して、日常の時間の中に、一定の時間を区切って、通常とは違う意識状態に自覚的に切り替えること、また、その方法」と定義している。葛西賢太は、通常意識状態と変性意識状態の往来を「意識変容」と呼び、「意識変容を自覚しているマインドフルな状態」を瞑想の基本的な状態(瞑想的意識状態)であると考え、この定義に当てはまるすべての行為を広い意味で瞑想ととらえることを提案している。

変性意識状態ってのは、「目覚めてはいるけど日常的な意識状態とは違う意識状態」のことですね。他に薬物使用時などの意識もこれに当てはまります。

「変性意識状態に自覚的に切り替えること」「通常意識状態と変性意識状態の往来を自覚している状態」といったことが瞑想の定義という見方は、確かに包括的な感じがしますね。



瞑想による特異な体験として、

  • 変化しやすい強烈な感情
  • 深いリラクセーションと高度の覚醒
  • 知覚の明晰さの高まり
  • 心理的プロセスや心理的移動説への感受性の向上
  • 身体を含めた対象物の知覚に関する変化や流動性の増加(対象恒常性の減少)
  • 精神的コントロールの困難さに対する自覚
  • 特に集中力を失わず、空想に陥らないようにすることのむずかしさの自覚
  • 時間の感覚の変化
  • 変性意識
  • 他者との一体化の体験
  • 防御心の減少
  • 体験への開放性、などがある。

とのことです。瞑想を繰り返していると、こうした体験ができる可能性があると。普通に生きてても中々感じられないことなんで、こんな体験してみたいな~ってのも瞑想のモチベーションになるかもしれませんね。個人的には「他者との一体化の体験」とかはどんな物なのかちょっと興味あります。



宗教学者鎌田東二は、狩猟・漁猟を行っていた人々が、その技術を向上させるために修練し、それが武術や武道、スポーツとなり、また宗教的な行や瞑想になっていったと考える。生きるためには食べる必要があり、人は生きるために命を殺害するが、人にとって命を食べることは、命がけの宗教的・呪術的行為であった。狩猟は命の交換の行為であり、狩猟民は、命がけで動物たちとの戦いに挑み、その中で自然への畏怖の気持ちを高め、同時に恐ろしい動物を前にしても立ち向かうことができるよう、自己をコントロールし、動物と戦うために自己と戦わなければならなかった。鎌田東二は、このような心のコントロール・制御の方法を開発する道程から、夢見法や瞑想、観想が生まれ、さらにそのような集中や制御が、止観や禅を生み、山を歩き走ることが、山岳跋渉や修験道を生んだと考える。

なんで人類が瞑想という行為をするようになったかとか考えたことありませんでした。瞑想ってのは最初、野生動物と戦ったり、命を奪ってしまうことなどの恐怖から自分を守るためにのメンタルコントロールの手段として生まれて、そこから色んなことに派生していったのではないかってことですね。面白い。



あるがままを観察し、受け入れるという東洋の思想は、1960年代にアメリカのヒッピーたちが注目し、彼らは精神的な成長を求め、ヒンドゥー教由来でインド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが広めた超越瞑想や日本の禅仏教を学び、アメリカや東南アジアで修業をした。

ヒッピーも瞑想してたんですね。ヒッピーっていうとビジュアルばかりが思い浮かびますが、彼らの思想を辿れば確かに瞑想やっててもおかしくないな。



超能力を覚醒させることを目指すシルバメソッド等、自己啓発セミナーでも瞑想が利用されている。

私は使えませんが、瞑想で超能力使えるようになったら嬉しいなってちょっとなりました。シルバメソッドってなんだ?と思ったので今度調べてみます。



アメリカの自己心理学者クリスティン・ネフは、社会的な競争に勝つことで自尊感情を高めることが幸福につながるという考えに疑問を呈し、仏教の思想に基づいてセルフ・コンパッション(自分への慈悲、思いやり、優しさ)の研究を行い、自尊感情が高くなくてもセルフ・コンパッションが高い人は、自分を受け入れ、幸福を感じ、不安や抑うつが低いという研究結果を示した。ネフは、セルフ・コンパッションを、マインドフルネスを包含し相補する概念として提示しており、ジョン・カバット・ジンやマインドフルネス認知療法創始者マーク・ウィリアムズも「マインドフルネスはコンパッション(慈悲)を含んでいる」と述べている。

瞑想とは少しずれますが、やはり幸福には「自尊感情を高めること」が第一で、その後「自尊感情が高くなくても幸福を感じる方法があるよ」ってんでセルフコンパッションが注目されたわけですね。セルフコンパッション大事!って最近はすごく言われてますけど、自尊感情を高く保てるのならべつにセルフコンパッションは必要ない気が個人的にはしているんですよね。私には必要ですが。



多くのスピリチュアルなコミュニティには、現実逃避や、現実の問題に魔術的な解決がもたらされることを期待して、瞑想などのスピリチュアルな実践に熱中している人も少なくない。トランスパーソナル心理学者・精神療法家のフランシス・ヴォ―ンは、瞑想や様々なスピリチュアルな実践に向かう人の態度に見られる問題として、スピリチュアル・アディクション(スピリチュアル中毒、スピリチュアル依存)をあげており、「スピリチュアリティへの強い欲求やこころざしには、本質的に自己の責任の放棄という要素が含まれるため、外的対象に依存しがちになり、アディクション(中毒)に陥る傾向がつねに強く潜在している」と注意を促している。精神医学や心理学が、スピリチュアルな実践を病理的なものと考えたり、疑いの目で見るのは、こうした一部の実践者たちの現実逃避的な態度も影響している。現実逃避的な人が瞑想などのスピリチュアルな実践を行う場合、依存が起きやすく、一度依存してしまうと抜け出しにくい。スピリチュアルな実践を行う自分を特別だと思い上がったり、スピリチュアルなもののみに価値を見出すような生活の破綻が起こることもあり得る。まだ自我が確立されていない場合、スピリチュアルな実践が弱い自分の自己評価を高める道具になってしまう恐れもあり、罪からの解放や浄化を目指す場合には、実践全てが贖いの儀式と化してしまうこともあり得る。

超能力について上で触れましたが、もちろんこうした注意は必要ですよね。超常的な力は確かに現実で抱えている問題を全て解決してくれそうな気がしてしまうんですが、それに全振りしてしまうと、生きていくうえでやらねばならないことを放棄しかねませんからね。宝くじが当たる前提で仕事を辞めてしまう、みたいな。こうしたスピリチュアルはロマンがあって私も興味深いなとか思っているたちですが、確証がない以上、あくまで娯楽の範囲で留めておくのが吉でしょうね。宝くじと同じように。今後科学が解き明かしてくれることに期待しましょう。そのころには私たちはもういないでしょうが。



集中的瞑想が深まり、次なる段階への入り口に差し掛かると、「すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な解放感」が湧き上がることがあり、瞑想者がこれを瞑想の最終的な到達点と勘違いすることが少なくない]。シュード・ニルヴァーナ(偽涅槃)と呼ばれており、瞑想が深まる過程の正しい一段階であるとみなされているが、強烈な幸福感を伴うため、この体験に夢中になってしまったり、悟りの境地に達したと信じてしまうものもいる。伝統的な瞑想では、こうした体験を指導者がチェックし、瞑想者が正しく認識するよう導くよう体系化されており、このような体験とは距離を取って接するように指導される。

偽の涅槃でも、この境地は体験してみたいなあ。チベットのお坊さんとかは一日10時間とか瞑想するらしいですが、何をモチベに?って思うんですよね。もしかしてこれじゃない?舐めたこと言ってすみません。