なんとなく色んなことを「そうなのか~」と受け入れながら過ごしていますが、考えてみたら本当かどうか分からないことまで信じちゃってたりしますよね。
エイプリルフールの日にそう思いました。
私は根拠みたいなのを割ときっちり求めるほうではありますが、その根拠だって自分で確かめていない以上本当かどうか分からない。
というか自分で確かめたものだって、本当かどうか分からなかったりします。
例えば、今自分は夢を見ているだけの可能性もありますから。
目を覚ましたら全て嘘でしたなんて可能性もゼロではない。
結局、人が物事を信じるかどうかの判断基準ってのは、本当かどうかよりも、自分が納得するかどうかな訳です。
というかそうせざるを得ない。
だって全てに完璧な根拠を求めていたら信じられるものなんか何もなくなりますから。
デカルトは「我思うゆえに我あり」なんて言いました。
自分が思っているということは「その思っている自分の精神」は確実に存在する。
みたいなことらしいです。
それ以外は信じられない。だから、そこを出発点にしていない情報は全て信じられない、と。
まあよくわからんですが、結局、デカルトさんみたいな天才でもない限り、完璧な根拠を細かいことにまでいちいち求めていたらやっていられないということです。
だから納得さえできるのであれば、とりあえずはそれでいい。
ただそうすると問題が出てきます。
自分が定めた納得の基準によっては客観的に見て「あの人はヤバイ情報を信じすぎじゃないか」とか、そういう感想を抱かれることも出てくるわけです。
まあ本人が幸せならそれでいいんですが、実際のところ、あまりに荒唐無稽なことを信じすぎると、結構な確率で後悔することになったりします。
それを避けるためにするべきことが「信じる」とは逆の行為。
すなわち「疑う」ということです。
何事も100信じずに、いくらかは疑っておこうということですね。
こうすることで、途中まで信じてしまっていても、ある瞬間に「ヤバイ」と気付ける可能性が格段に上がります。後悔する前に踏みとどまれるようになる。
つまるところ、「クリティカルシンキング」をしましょうということなんですがね。
「情報を疑問深く分析し、論理的に評価する思考スキル」のことです。
そして「疑う」ということにはもう一つ大事な点があります。
「100信じない」というのが重要だと言いましたが、同じくらい「100否定しない」というのも重要だということです。
どんなに自分の中に無いことでも、1くらいは本当かもしれないと思っておくという姿勢です。
言い換えると「自分を100信じない」「自分を疑う」。いわゆる謙虚さですね。
「信じる」と「疑う」。
これら真逆のアクションをぶつけバランスをとることで情報と適切な距離を保てば、完璧な根拠などなくても結構うまく生きていくことができるよと、そういう話でした。