「若いころ聞いた偉人の名言。当時は意味不明だったけど、数年越しに聞いたらすっと入ってきた」
とか。
「子供の頃見た映画。大人になってから見ると、感想が全く変わっていた」
とか。
そういう経験は誰にでもあると思います。
これはどういう現象なのか。
経験や知識を詰むことで、当時理解できなかった事が理解できるようになったと、そういうことなんでしょう。
つまり「以前の自分」と「今の自分」では同じ経験から得られる物の量が違うということです。
この現象は気付いていないだけで、日常のあらゆる場面で起きているはずです。
歳を重ねているだけで、自然と吸収できることが増えているなんて、歳を取るのが少し楽しみに思えますね。
今の例では「昔の自分」と「今の自分」の間に差があるということでしたが、この差は当然「自分」と「他人」の間にもあります。
その場合、単純に蓄積してきた分野の違いである場合が殆どでしょう。専門分野の違いと言うわけです。
ただ必ずしもそうじゃない。つまり、同じ分野で蓄積してきたはずなのに、蓄積量の違いで気付けない可能性もあると言うことです。自分の勉強不足・経験不足で気付けない場合があると、そういうことです。
日常生活でもし、そうした原因で他人が気付けていることに自分だけ気付けていないとしたら、ちょっと悲しいですよね。
そうならないためにもたくさん勉強して、たくさん経験していきたい。
所詮、人は自分というフィルターを通してしか物を見ることはできません。
そのフィルターの目が荒ければ、あらゆる情報は自分の中には残らず素通りしていきます。
ここ厄介なのは、そのこぼれたほうに「真髄」が隠れている場合があるということです。
人からのアドバイスや、本など、なんでもいいですが情報を受け取ったき、私たちは「よし学びきったぞ」と思ってしまっているはずです。
そうじゃなくても「真髄の大半は得た」と、そう思ってしまっています。
途中で学ぶのを断念してしまったならいざ知らず。学びきったと思ったものに対して、まさか自分がこの情報の一番重要なものを拾えていないなんて思うはずありません。というかそんなこと思いたくないです。
でも大抵の場合、真髄の存在に気付けていないなら、零したことにすら気づいていない。直視したくない事実です。
世の中を有利に振舞っている人たちは大抵、フィルターの目を極限まで細かくし、素通りする量を最小限に抑えようと努力し続けています。そして真髄を取りこぼしていることをいつまでも疑い、何度でも同じ情報をさらい直します。
もし自分も有利に世を渡っていこうと思うのならば、彼らと同じように「フィルターの目を細かくしていく努力」と「真髄を取りこぼしていることを疑う姿勢」が必要なわけです。
具体的には、大量のインプット(知識や経験の積み重ね)とその抽象化(得たものの共通の意味などの考察)。そして一度習得したと思った知見を定期的にさらい直すこと。
一生勉強して、経験して、考えていかないといけないのかぁ。しかも何度も繰り返すのかぁ。いやあ頭が痛い。