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教養を生む読書の方法

読書は教養を深めるなんてよく言いますが、世の中の読書好きを眺めていると「必ずしも教養を高めるものじゃないのかな」なんて思うこともしばしば。

教養になる読書と、そうでない読書。何が違うのか。

正しいか間違ってるか、みたいなことを言い切るのははばかられますが、少なくともあまり役に立たない読書の仕方ってのはあるのでしょう。

意味のある読書と意味のない読書の違いは何なのか。

そこに一つの説を投じます。

 

結論から言うと「多読より、厳選した本を繰り返し読む」。

 

たくさんの本を読めば読むほど、仕入れた情報の数は確実に増えて行きます。

100冊読んだら100冊分の情報が頭に入る。

読破数が増えるほど頭がよくなっていく気がします。

でもこれはあまりに短絡的で、実際は違います。

1冊の本に10書いてあったとして、一回の読書で10全てをさらい切ることはできません。間違いなく。

100冊読んで100冊分の情報が身になっているなんてことはあり得ません。

これは著者と読者の間に情報格差があるからです。

小学校で算数を学んでいる人に微分の話をしても殆ど吸収できませんよね。

微分を聞く前に、聞くに値する数学の知識を得ないと微分について聞いても何も理解できません。

それと同じように、本を読んだ時も、その時点で吸収できる量は著者との情報格差が広いほど少なくなり、ほとんどの場合10にはなりません。

その分野の門外漢なら、最初は1、暫く興味を持ち続けてから読んで2、そうやって読んでいくにつれて3,4,5と増えていく。

10得るには、恐らく相当な年月が必要です。

というか、10得られるのか実際のところわかりません。

そもそも自分がどのくらい得ているかは判断のしようがない。

数値で出るわけではないですから。

だとすると、本当に好きな本、大事な本は一生読み続けてもいい。

また、9学んだとしても本当に著者が伝えたいことは残り1に含まれていることだってあり得るわけです。

その場合10得ない限り、その著者の伝えたい真髄みたいなものは得られないことになります。

真髄を求めて何度も何度も読み返す。

得たのか得てないのか、疑いながら一生真髄を求め続ける。

恐らく身になる読書とはそういうものなんだと思います。

そうじゃない読書が無駄とは言わないまでも、本当の意味で教養にまで昇華されることはなかなか無いんじゃないでしょうか。

だからこそ、たくさん本を読んでいるのに教養が高いとは思えない人が存在するのではないかと思うわけです。

1や2の吸収で真髄を得ないまま次の本、また次の本と手を出しているだけではあまり役に立ってないんじゃないかと。

 

本以外にも、映画や絵画、漫画やアニメ、何でも良いですが、創作物には製作者の経験や知識、教養から生み出された真髄が意図的じゃないにしても紛れ込んでいるものです。

作者がそれまでの人生をかけて絞り出した真髄を吸収する前に、この作品は鑑賞し終えたと満足してしまうのはもったいない気がしませんか。

 

ベルリン国際映画祭の有名アニメ監督も、同じ作品を繰り返し見るそうです。

テレビもアニメも新しいものにはほとんど見ず、人生の中でこれは良いと思った物を繰り返し見ている。そしてひたすらその作品について考え、考えすぎて、自分の頭の中でまったく別の作品のように書き換わっちゃうことも多くあるようです。彼の作品が原作とかけ離れていることが多いのはそういうからくりかもしれません。

新しいもの拒み、古い自分の好きなものだけを見続けるその行動は、一見、年老いて好奇心を失っただけにも見える。

でも実は真髄集めをしているのだとしたら、途端に彼の創作の秘訣に見えてきます。

そうして集めた真髄を自分の作品に繁栄させているからこそ、世界的に評価される作品が作れるのではないでしょうか。