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「知識は世界の解像度を高くする」とは

趣味でクイズを嗜んだりします。

クイズ界隈に限った話ではないと思いますが、最近よく聞く言葉があるんですよね。

 

「知識を増やすと、世界の解像度が高くなる」なんて言葉です。

 

これってどういうことなんでしょうか。抽象的で少しわかりにくい。

というわけで深ぼっていきます。

 

まず解像度が高い状態とはどういう状態でしょうか。物がはっきりしていて、綺麗に見える状態です。逆に解像度が低いと物がぼやけてよくわからないものになる。あまりに低ければ認識さえ困難になります。

どうやら知識でも同じ現象が世界に対して起こるようなのです。

つまり、知識が少ないと世界の大半がぼやけてよくわからない雑情報として流れていく。正確には雑情報としても扱われない、なんの意味もなさないものとなって我々に認識すらされない。せっかく世界には我々の興味を引きうる色々なものがたくさんあるというのに、知識がないとそれらを認識できないことになるわけです。これは悲しい。

一方で解像度が高いとどうでしょう。世界のあらゆる情報を意味のあるものとして認識できるようになります。そして認識できるということには、その先にまだメリットがあります。それは、認識できるものは脳に記憶として蓄積していくということです。記憶として残るということはつまり知識が増えていくということなんですが、これは次のループを生みます。

 

知識で世界が認識できるようになる→

認識したものが蓄積され知識になっていく→

増えた知識のおかげでより多く世界を認識できるようになっていく→

どんどん蓄積される知識の量が増えていく→

 

こういった具合です。知識の積み重ねだけが教養とは言えないものの、教養の一要素として知識の積み重ねというものがあるのは確かです。ループに入れる知識を持つ人と、ループに入れない持たない人とではどんどん格差が生まれていくというのは想像にたやすいでしょう。

 

解像度が高いと認識の範囲が広くなるということを実感した出来事がありましたので私の経験談ですが紹介してみます。

私はサッカーのことはあまりわかりません。ワールドカップがやってれば見るくらいの超にわかです。ですから普段スポーツニュースでサッカーのことなんかが流れていても、その情報はほとんど頭に入ってきません。意味のない情報として、脳に蓄積されない状態ですね。しかし、ある時、サッカーについてちょっと調べる機会がありまして、専門用語やテクニック、日本サッカーの歴史、世界の有名選手などなど、この辺の知識を得ることがありました。するとどうでしょう。今までただの雑音として何も意味をなさない情報だったスポーツニュースが勝手に頭に入るようになっていました。勝手にという言葉を使ったのは、意識して見ていたわけではないからです。リビングでほかのことをしていた時にたまたま流れていただけのスポーツニュースの音声を、脳が意味のある情報として受け取り始めたのです。この経験で知識が世界の解像度を上げた瞬間を実感として得ました。こうした現象はサッカーに限らずあらゆることで起こっています。我々は三猿を知ってから東照宮に行くからこれが三猿かと認識できるのであって、知識なしに行ってもただの装飾の一部にしか見えないのです。

 

巷では、勉強することの意義についてよく問われます。普段使わないことを知ってなんの意味があるのか。一生困らないというのは確かにそうでしょう。原始人は我々の持つ知識のほとんどを持たずに生きて、なんの不満も感じずに死んでいったはずです。でも、知識の積み重ねは間違いなく教養を高めます。そして教養は、先ほど紹介したループに入れば、複利のごとく増えていきます。教養を高めることに価値がないとするならば別ですが、もしそこに少しでも価値を見出すのならば、勉強は生涯にわたってする価値のあるものかもしれんせんと私は思った次第ですはい。